公開シンポジウム
「学習ネットワークと生涯学習2」
期日: 平成12年1月17日(月) 午後2時30分〜5時
場所: 静岡大学附属図書館6階SCSメディアルーム
参加機関: 福島大学、茨城大学、筑波大学、大分大学、宮崎大学、琉球大学の各生涯学習教育研究センター、京都大学霊長類研究所 計7機関
研究報告1:「アクセシビリティの政治」
静岡県立大学国際関係学部教授 石川 准
研究報告2:「協同学習・協同問題解決のためのコンピュータ支援環境」
静岡大学教育学部附属教育実践総合センター助教授 村山 功
研究報告3:「福祉文化の創造と生活者の学び合い」
静岡県社会福祉人材センター部長 平田 厚
パネルディスカッション
コーディネーター
常葉学園大学教育学部教授 角替弘志
主催者あいさつ
司会(角替):
「全体の司会とパネルディスカッションのコーディネーターを務めます角替です。どうぞよろしくお願いします。それでは開会に先立ちまして、静岡大学生涯学習教育研究センター長の岡田嚴太郎教授からご挨拶をいただきます。」
静岡大学生涯学習教育研究センター長(岡田嚴太郎):
「皆さんこんにちは、センター長の岡田でございます。静岡大学生涯学習教育研究センターでは、センター独自の調査研究事業といたしまして、昨年度から様々な事業を展開いたしております。その一つの柱として、生涯学習と学習ネットワークというテーマで、研究事業を行ってまいっておりますが、今回は昨年度に引き続き、『学習ネットワークと生涯学習 Part2』と題しまして、その第2回目のシンポジウムを開催させていただきます。近年、生涯学習社会への移行が叫ばれるとともに、新しいメディアを用いた様々な学習ネットワーク構築の試みが出てきてございます。前回のシンポジウムでは、学習ネットワークの構築に関わっておられる実践者、理論的研究を進める研究者の方々をお招きして、学びのネットワークの可能性とその問題点をご報告していただきました。引き続き今回は、生涯学習が様々な背景を持った多種多様な方々が参加すべきものであることに注目し、特に学びのネットワークへのアクセスの問題、協同のためのインターフェイスのあり方、学び合いの中で文化を創っていく営みなどに焦点を当てた報告をお願いしております。
今回もメディア教育開発センターのご協力を得まして、衛星回線を使った学内共同研究システムでありますSCSによって、先ほどご紹介にありました本学と福島大学、茨城大学、筑波大学、大分大学、宮崎大学、琉球大学の各生涯学習教育研究センター、および京都大学霊長類研究所とが結ばれており、8国立大学の参加のもとに、このシンポジウムが執り行われます。後ほどご感想や新たなご提言をいただきながら、ともに生涯学習推進のための示唆を蓄積していく機会になれば幸いに存じます。
本日はまず静岡県立大学国際関係学部の石川 准先生から、『アクセシビリティの政治』と題しまして、情報テクノロジーと社会変動についての関係、視覚・聴覚障害者による情報アクセスのための様々な実践を通した、バリアフリーの生涯学習社会作りのためのご提言をいただきます。
続きまして、本学教育学部附属教育実践総合センターの村山 功先生からは『協同学習・協同問題解決のためのコンピュータ支援環境』と題しまして、生涯学習におけるインターフェイス、学習の共同体作りのためのコンピュータ利用のあり方について、お話をいただきます。
また、静岡県社会福祉人材センターの平田 厚先生からは、『福祉文化の創造と生活者の学び合い』のテーマで、福祉の視点から人材ネットワーク作りやボランティア活動を通した生活者の学び合いについてお話しいただきます。
後半は本学名誉教授であり、生涯学習教育研究センターのサポートメンバーでもあられます、常葉学園大学教育学部教授の角替弘志先生にコーディネーターとして加わっていただき、パネルディスカッションを行います。
本日は報告者の諸先生方には、大変ご多忙の中を本学生涯学習教育研究センターのために、また静岡大学教職員、学生のために足をお運び頂き、誠にありがとうございます。よろしくお願いいたします。また会場にご参集されました教職員、学生の皆さん、またわざわざお出かけをいただきました生涯学習推進担当者の方々にはご静聴をいただき、後半の質疑討論に是非、積極的にご参加をいただきたいと思います。本日の公開シンポジウムが生涯学習をめぐる新たな一つのネットワーク作りの糸口となることを願って、私のご挨拶に代えさせていただきます。ありがとうございました。」
司会:
「ありがとうございました。ただいまの岡田センター長からのご挨拶のなかでご紹介ありました3人の先生方からほぼ30分ずつお話をいただいたあと、5分くらい休憩をとりまして、その後パネルディスカッションに入りたいと思います。
まもなく21世紀に入ります。20世紀はどちらかというと、学校の時代だったと言ってよいと思います。学校に行くことによって充分に学ぶということが実現した時代だったわけです。しかし、20世紀末には、技術革新が急速に進み、新しいメディアの開発が積極的に行われ、IT(情報技術)が社会のあり方を大きく変えるようになってきました。また、社会が非常に複雑な形をとることになり、生涯にわたり学習の機会をどのように拡大するかということは、重要な教育の課題になってきたのです。このことは特に21世紀においてますます重要になることと思います。そういう意味で言えば、まさに21世紀は生涯学習の時代になるのではないかと思われますし、そのためにも本日このようなSCSによるシンポジウムの試みも新しいメディアを使った、新しい学習機会の創造ということで、大事な意味を持つのではないかと思っております。
それでは早速3人のそれぞれの先生に、事例報告という形で発表をお願いしたいと思います。初めに静岡県立大学国際関係学部の石川准先生にお願いしたいと思います。石川先生は平成元年、1989年から静岡大学の隣にございます静岡県立大学国際関係学部にお勤めになっていらっしゃいます。先生は社会学の専門ということで大学の中では、国際行動学特殊研究、あるいは現代社会学というような講義をお持ちでございます。実は先生は16歳の頃、失明なさったということで視力障害をお持ちでございます。そういったことをご自分の力で克服するということで、例えば日本語・英語自動点訳プログラムをはじめ、視力障害者用の様々なコンピュータプログラムの開発も進めてこられているということで、私どもは、是非そういった面からのこともお伺いできれば大変ありがたいと思います。それでは『アクセシビリティの政治』ということでお話をいただきたいと思いますがよろしくお願いしたいと思います。」
アクセシビリティの政治
石川 准
ただいまご紹介いただきました静岡県立大学の石川准です。これから30分時間をいただいてお話をさせていただきたいと思います。私の本職は社会学でして、特にアイデンティティ・ポリティックス論をやっていますけれども、全盲である私は仕事を進めていく上で情報テクノロジーを活用する必要性があり、そうした関係で学生時代からコンピュータ・プログラミングも勉強し、いくつか世の中に視覚障害者用のソフトウェアを発表してきております。社会学と情報処理を両方やっている者として、さらに視覚障害者という立場で、バリアフリーとか、アクセシビリティ、ユニバーサルデザインといったようなことに関わる話を今日少しさせていただこうと思っております。聞いていらっしゃる方がどのような背景や関心や知識をお持ちなのか、必ずしも私はわかっていませんので、そこである種の齟齬があるかもしれませんけれども、それは後ほど質問等いただければと思います。
パーソナルコンピュータが登場したのは約20年前のことでした。コンピュータが公衆回線につながって、パソコン通信が始まるまではあっという間でした。やがて、インターネットが登場し、ウェブというプロトコルが提案されて、世界中にホームページが立ち上がるようになりました。さらにコンピュータの家電化、あるいは家電のコンピュータ化と言えるような状況も最近は急速に進んできています。情報テクノロジーは社会や文化を、あるいは人間関係や人の意識さえも変えつつあります。それらには歓迎されるものもあれば歓迎できないことも含まれます。情報テクノロジーを社会がどのように受け入れていくのかということが非常に大きな問題になっていると思います。とりわけ、情報阻害、情報剥奪をこれまでずっと経験してきた障害者、とくに視覚障害者と聴覚障害者は情報テクノロジーに対して大きな期待を一方で抱きつつ、他方で情報テクノロジーの外部に置かれてしまうのではないかという危機感を抱いております。かつて、グラハム・ベルが電話を開発したときの開発動機に、聴覚障害者である妻のためにそれを役立てたいという気持ちがあったと言われていますし、またタイプライターというのは、視覚障害者が文字を書くための道具として、もともとは考案されたとも言われていますし、あるいは音声入力、音声認識という技術は手を使えない、頸椎損傷などで運動障害がある障害者の人たちが、コンピュータなどを操作するための方法として提案されたというようなことも言われていて、実は情報テクノロジーの発展と障害者、ディスアビリティを持った人たちのニーズというのは深く関係していると思います。ところが、電話と聴覚障害者の関係がそうであるように、テクノロジーと障害者の関係は単純ではありません。とてもアイロニカルです。
例えば聴覚障害者の場合はインターネットによって聴者とのコミュニケーションがとても楽になりました。手話のコミュニティの内部に限られがちだった日常的な交流が手話を使えない聴者とも可能になりました。視覚障害者にとっては、これまでの活字媒体の情報というのは点字とか録音といったような方法でしか、手に入らなかったわけですけれども、電子媒体の情報であればアクセスの方法を工夫する余地ができてきます。従来はボランティア等が点訳したり、朗読したりというようなことをして情報を得てきたわけですけれども、それでは情報は不十分にしか入ってきません。従来の視覚障害者の生活というのは、いかにして情報なしに何とかやっていくのかというそういう生活者のスキルみたいなもの、そういったもので暮らしてきたというところがあります。しかし今日のように、圧倒的に情報が流通する時代になって、情報テクノロジーの利用可能性というのが広がってきている中で、今までのそういった伝統的な暮らし方ではなくて、情報を主体的に取得して自分の方からも情報発信していくという生活の可能性が広がっています。ただし、無条件でそういうことが実現するというわけではありません。むしろ情報テクノロジーは電話がそうであったように、しばしば障害者をいっそう情報弱者にしてしまう可能性を持っています。だからアクセシビリティの政治というわけです。
聴覚障害者の場合は、放送メディアからの疎外ということも大きな問題になっていまして、字幕付き放送への強い要求をずっと行ってきています。それがいろいろな形で実を結びつつあります。なかんづくアメリカでは放送に字幕を付けることが事実上放送者に義務づけられています。2000年の段階で全ての放送の25%、2002年には50%、2004年には75%、そして2006年には全ての放送に字幕を付けなければいけないことになっています。ニュースとか天気予報とか、公共の情報とかそういったものだけではなくて、娯楽番組やスポーツ番組に至るまで全て字幕を付けなければいけないのです。アメリカで販売されているテレビにはデコーダー(decoder)というクローズドキャプションのための装置が内蔵されています。クローズドキャプションのためのデバイスを内蔵していないテレビは売ってはいけないという「テレビデコーダー回路法」がもう既に1990年にできています。そういう状況が、そういう社会があります。日本でも字幕に関しては、聴覚障害者のかなり活発な運動がなされておりまして、ただこれに対しては、著作権法という壁があります。放送に関わる著作権というのは、非常に複雑に絡んでいまして、現状では著作権者の許諾を得ないと自分たちで作ることさえできません。いわんや放送局が自発的に付けている字幕というのはごくごくわずかです。字幕はもちろん聴覚障害者に非常に利益になることですけれども、日本語がよく聞き取れない外国人にとっても便利です。騒音の多い場所で放送を見ている場合にも字幕があった方が便利でしょうし、ちょっと電話がかかってきたら字幕モードに替えてストーリーを追いかけながら電話をするなんてこともできるようになるわけです。アメリカにおいて運動や日々の活動が実を結んで、字幕がほとんどの放送に付けられるところまできているというのは驚嘆すべきことです。
それから、視覚障害者の場合はコンピュータアクセスに壁があります。コンピュータというのは、キーボードで入力して、ディスプレイに表示されるコンピュータからの応答を見て操作します。コンピュータとの相互作用は、キーボードやマウスとディスプレイを使ってやるわけですけれども、キーボードはともかくマウス操作っていうのは困難ですし、ディスプレイは役にたちません。視覚障害者がコンピュータを使おうとすると、音声とか点字表示をうまく活用しなければなりません。ディスプレイではなく音声デバイスや点字ディスプレイが必要になります。またソフトウエアはそれらのデバイスに対応していなければなりません。しかしコンピュータ、正確にいえばOSや一般のアプリケーション・ソフトは、そういう使い方を予定して作られているわけではないので、そこに大きな問題があり、そういった問題を解決するためには特殊なソフトウェアが必要になります。スクリーンリーダーと呼んでいるソフトウエアがそうです。オランダのアルバという会社と一緒にWindows用のスクリーンリーダーを開発しまして昨年リリースしたんですけれども、それが今ここにありますのでちょっとデモをやらせて頂こうと思います。
デモの様子(MPEG形式 581K)
スクリーンリーダーというのはどういうソフトかと言いますと、OSやアプリケーションソフトの動きを監視し、いま何が行われているかを分析して、必要な情報をユーザーに提供するソフトウエアといえばよいでしょうか。ここで重要なことは、OSがそういうスクリーンリーダーの存在を知って、自覚的に情報をくれているわけではなくて、あくまでスクリーンリーダー側がいわばスパイ行為のようなことをやって情報を取得して、それをユーザーに音声で提示するということをやっているということです。とてもトリッキーな技術なものですから、開発に時間がかかるし、安定しない面もあるし、またOSが少し改訂されると途端に不具合が出てしまったり、つじつまが合わなくなってしまったりということがおきます。こういったものをなぜ作らなければならないかといいますと、もちろんコンピュータ、あるいはOS、アプリケーションが特定のユーザーモデルを前提にして作られているからです。そのユーザーモデルに合致しない人は事実上ユーザーになれないことになります。だからといって、使わない、使ってなどやるものか、というように拒否するわけにはいきません。やはり社会の中に導入されて人々が使っている道具は、障害者ももちろん使いたいし、使わないということが様々な形で不利益となってしまいます。
スクリーンリーダーは本当にユーザーサイドの間に合わせ技術なんですね。ソフトウェアを開発している開発者、企業、あるいはハードウェアを開発している企業、コンピュータ産業が一方にあって、それに対してユーザーサイド、そのコンピュータにアクセスできないと言う人々がいます。このスクリーンリーダーというのは、あくまで一番ユーザーに近いところで、最終的につじつまを合わせるということをやっています。だからこそ先ほどから申し上げているように非常に不安定だったり、不確実だったり、技術が短命であったりというようなことがあります。MS-DOSの時代は、10年以上ひとつのプラットホームが安定して続いたわけですけれども、今日、OSメーカー、しかもほぼ独占的に供給するメーカーが、OSをかなり頻繁に改訂しています。そうしますと、あるOS環境でようやく熟した、それなりに安定したスクリーンリーダーが出来たとしても、まもなく陳腐化してしまう。あるいは時代遅れなものになってしまう。そんなに時代に追随しなくても良いではないかという言い方もあるかもしれないですけれども、オフィス環境も教育現場も急速にそれにつれて動いていくし、社会全体が動いていくと、他に自分と同じ環境で仕事や勉強している人たちが、まわりを見渡してもいなくなってしまいます。例えば、MS-DOSというのは、数年前までみんな使っていたんですけれども、今使っている人というのは実は視覚障害者とごく一部の特殊な利用を行っている人に限られていて、Windows、もしくはMac, UNIXといったような環境で人々はコンピュータを使っています。そういう社会全体の動きの中で私たちもそれに歩調を合わせていこうとすると、スクリーンリーダーの開発をずっと続けて行かなくてはならないということになるのです。
それからウェブ(Web)、インターネットというのが、これも視覚障害者にとっては大変大きな情報源になっていまして、これまで活字媒体で不十分にしか取得できなかった情報を取得できるようになったんです。音声ブラウザという視覚障害者がインターネットにアクセスするための方法を開発して、そのことによってそれは実現しました。ところでホームページというのは、HTMLという文法に準拠して書かれています。マークアップ方式の表現方法を採用していますので、エディタなどで読めばどういう指示がなされているか理解することができます。もともとホームページは文字とじゃっかんの画像からなるとてもシンプルなものでした。しかし、今日のホームページは、そういったものからおよそかけ離れつつあります。インタラクティブにいろんなことができる。画像が動いたりとか、フレームといっていくつかの情報を仕切ってそれぞれ独立に提示したりとか、ジャバスクリプト(Java Script)とかショックウェーブ(Shockwave)とかが導入され、多彩な表現が可能になりました。そうしますと、以前のホームページというのは、テキスト中心に作られており、テキストブラウザでアクセスしても十分理解できましたが、ページが画像中心になると、視覚障害者にとっては非常にアクセスしづらいものになりました。インターネットにアクセスしても、何が書いてあるかちっともわからないというようなページが増えてきています。これに対しても、先進的な国々ではウェブのアクセシビリティということを盛んに言っていまして、どうやってホームページの表現力の多彩性とか多様性というものを保証しつつ、しかし、誰でもアクセスできるようなホームページにするにはどうしたらいいのか。そのためのいろんな規約であるとか、ガイドラインであるとか、そういったものを作ってきています。日本でもそうしたことに対して意識の高い人々、団体、企業は、アクセシブルなホームページを作ろうと努力しています。大部分はそういうふうな発想はなくて、見栄えに走るといったような、見てきれいな、印象に残るようなホームページを作りたいといって作っているところが圧倒的です。誰が誰のために情報を発信して、どういう人たちが接することを望んでいるのかという問題意識があまりないということです。
それから、今後、情報端末であるとか、デジタルテレビであるとか、電子媒体の本とか、様々な新しい情報テクノロジーを利用したメディアが登場してくるわけですけれども、そういったものについても、日本では、ほとんどバリアフリーとかいったところに関しての議論はなされておりません。従って、バリアフリーに対して関心を持たざるを得ないような人がもっと意識を高めて、自分たちもそういった議論の場に参加していって、どうすればより多くの人たちにとって望ましい情報テクノロジーの利用の仕方が可能になるのか、ということについて、議論していく必要があるんじゃないかなと思っています。
コーディネーター:
「どうもありがとうございました。大変興味深いお話を伺わせていただきました。バリアフリーあるいはユニバーサルデザインという視点が情報テクノロジー、いわゆるインフォメーションへのアクセスのことを考えていく場合に非常に重要な役割を果たしていくということについて大変貴重なご提言をいただいたと思います。
それでは引き続きまして村山功先生からご提言をいただきたいと思います。村山先生は平成3年から静岡大学教育学部教育実践総合センターにお勤めでございます。専門は認知心理学ということでございますが、大学の方では教育情報科学、あるいは教育方法論というような授業を担当していらっしゃいます。村山先生からは『協同学習・協同問題解決のためのコンピュータ支援環境』ということでご提言いただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。」
協同学習・協同問題解決のためのコンピュータ支援環境
村山 功
ただいま紹介いただきました村山です。よろしくお願いします。
まず最初に今回生涯学習というのがもともとのテーマでして、その中でインターフェイスをということですので、先ほど紹介いただきましたテーマで考えてきました。けれども、最初に生涯学習というもの自体について私がどう思っているかということをお話ししたいと思います。というのは、そういう枠組みから言うと、今日する話は本当にちっちゃな話なんだということをご理解いただきたいからです。
学生の皆さんはあんまりそういう感覚もないでしょうけれども、私はずっと独身でいましたが、結婚すれば当然、一人暮らしの人間から夫という立場になるわけですよね。そうすると初めてなった夫というもののなり方は分かんないわけですから、一緒に暮らしていく中でその夫であるというのはどういうことか、自分で作り上げて行くわけです。そして子どもが産まれますと、今度は父親という存在になってしまうわけです。そうすると家庭の中で父親として生きるというのは一体どういうことだということも、まただんだん身につけていかなければいけないわけですね。例えば、その子どもが今、幼稚園に行き始めているんですけれど、子どもにお友達が出来ると私は「ゆみちゃんのお父さん」になるわけです。そうするとゆみちゃんのお父さんとして子どものお友達とどう接するかということがひとつの問題としてまた出てくるわけです。というふうに生きていくってことは、どんどんどんどん自分のアイデンティティが変わっていく、増えていく。変わっていくその中でどう振る舞っていくか、自分で作り上げていくというのが絶対要求されるわけですよね。若い人はまだピンとこないと思いますけれども、私は今度40になるんですね。40男になると例えば身体にガタが来るとか、そういう問題いろいろあるわけです。大学の時の友だちと会っても、最近胃の調子が…って話から始まったりして、何だこいつは…って感じになるわけですが(笑)。そういうのも違和感がなくなってきつつあるわけです。そうやって人間生きていく限りは変わっていくわけで、その変わっていくものに対して、自分っていうのをもう一度作り直していかなくてはいけないわけです。だからそういうことも含めて生涯学習だ、人間生きている限りは学習しているんだというふうに思いますんで、いわゆるお勉強的な部分だけを取りあげて生涯学習だっていうのはまずいなあって思っているんですけれども。たまたま話がインターフェイスってことですから、ちょっと狭い範囲で、どっちかというとお勉強しましょうね、いくつになってもお勉強しましょうねって範囲でのものを考えていこうというふうに思っています。
そういう意味で何か学ぶっていうときには、当然、学びたい知識とか情報というものへアクセスしなきゃならないわけですね。そこんとこにインターフェイスの問題が出てくるわけです。何か自分の知りたいこととか情報っていうのは、もともとは誰かが生み出したりして、持っているわけです。ですから人から人へというのが一番原始的な、原初的なインターフェイスだと思うわけですけれども、実際にはそういうふうになっていなくて、私たちが手にする情報というのはいろいろなメディアを通して手にするわけです。昔はほとんどが印刷物という形で情報というものを手に入れたわけです。それが例えばラジオのようなものになったり、テレビのようなものになったり、音楽も実際に演奏されている場に行かないと聴けなかったわけですけれども、レコードからCD、MDといろんな形にメディアが変わってきて、身近に接することが出来るようになってきているわけです。私たちが知識や情報を獲得するということを考えるときには、インターフェイスとしてメディアというものの存在は考えなければいけないわけです。物理的な媒体なしには知識や情報というのは残っていないわけですよね。そういうふうに考えるとメディアというのが、我々にとってとても大事だというのがわかるわけです。けれども、メディアというのはそこにあるだけだと、私たちにとって知識や情報にならないんです。というのは、例えば本があっても、それがロシア語で書いてあれば、ロシア語が読めない私はわからないわけです。そういう意味で自分が読めない字で書いてあれば、当然その本は読めないわけですから、そこに書いてある情報は私にとってアクセスできないものになってしまうわけです。メディアというものが出てくれば、それとペアになってリテラシー、読み書き能力の問題がついてくるわけです。ですから、私たちのまわりには情報があふれているわけですけれど、あふれているものの中には自分がそもそもそれを読み書きする能力がないが故に、実際的にはないのと一緒という、そういう情報もあるわけですよね。今問題なのは、私たちの社会が持っているいろいろな知識というのがあるわけですけれど、私がそれを利用できるかって考えたときには、それが一体どんなメディアにのっていて、私はそれを読み書きする能力があるんだろうかということがすごく大事な問題になるわけです。読み書きする能力をリテラシーと言い、逆にそういう能力がない場合にはイリテレイトとかイリテラシーとか言うんですが、つまりそういう人にとってはそれはないのと一緒なわけですね。読み書きが出来るということは、読み書きができることが大事だというよりは、読み書きを通して、私たちの社会が持っているいろいろな情報を自分のものにすることができることが大事なわけです。言ってしまえば、読み書きできることというのは、知る権利とペアなわけです。私たちの社会は私たちの知る権利というのを二つの方法で守ってくれているわけです。ひとつは公共図書館というものがあるんですが、みなさんあんまり気にしたことがないかもしれませんけれども、公共図書館というものがなければ、本というものは特定の個人が持っていたり、限られた集団が共有していたりするという形で普通の人は見られないわけですよね。あるいはお金がなければ買えないわけですよ。それに対して、公共図書館というものがあることによって私たちは誰でも本を手に取ることができるわけです。ところが本を手に取れるだけじゃやはりダメなんですよね、読めなきゃいけないんです。そのために私たちの社会には公教育というものがあるわけです。私たちはそこで読み書きというものを教わることによって公共図書館に行ったときにそこにある本を読むことができるという、組み合わせになっているわけです。その公共図書館と公教育というものがペアになって、私たちの知る権利というのが守られているというふうに考えます。
それを前提にしますと、メディアが変わっていくというのは、それに対応してリテラシーの内容も変わっていくということなんです。例えばビデオというものがありますけれども、ビデオってものが出てきたときにはビデオリテラシーという言葉が出てきました。つまりビデオというものを見て内容を理解する能力というものが必要だということです。あるいはマンガというのはみなさん普通に読めると思うんですけれど、私も普通に読めますが、年輩の方の中には、ああいうのは読めんという方もいるわけです。つまり、「このコマはどういう順番で読んでいくの?」とか、「みんなセリフは声に出して読むの?」とか、「擬態語をみんないちいち見ていくの?」とか、いちいち聞く人はそもそもちゃんとマンガが読めないわけです。やはり読むノウハウというか、リテラシーがあって、それができない人はマンガが読めないというふうな状況になっているわけです。そういう意味でメディアが変わっていけば、必要なリテラシーも変わっていくというのが私たちが今、負っている状況なわけですね。そういうふうなことを考えたときに、これから私たちが持っているいろいろな情報、大切な情報や知識というのが、一体どういうメディアに載っていくかということが、私たちにとってとても大事なことになってくるわけです。今まで通り必要なものが全部本になっているというんでしたら、本を読むっていうことが私たちにとって重要なことになるんですけれども、もしこれから必要な情報がみんな例えばインターネット上におかれるということになれば、みんなコンピューターが使えないとそういう情報にアクセスするできないということになるわけです。つまりそういう形でコンピューターの操作を覚えないと知る権利が守られないということになっていくわけです。そういう意味で私は情報教育もやっていますので、学校でなんでコンピューターを教えるかということを考えるときに、専門学校で教えればいいじゃないかという話もあるわけですけれども、私はコンピューターは絶対学校で教えなければいけないと思っています。その理由は先ほど言ったとおりで、公共図書館という形で誰にもアクセスできる情報があっても、それを読み書きする能力が与えられていなければそれはないのと一緒ですから、インターネット上にいろいろな情報が公開されているっていっても読み書きするリテラシーがなければそれはないのと一緒なわけです。私たちがもしそういった情報にアクセスするとすれば、コンピューターというものの操作を覚えるしかないわけです。そういう意味で、学校でコンピューターを教えるというのは、これからコンピューターも大事だよねというふうな軽いノリじゃなくって、私たちがこの先生きていく上で私たちに必要な知識や情報というものが、私たちの手に届くところにあるようにするためには、これからの子どもたちというのはコンピューターを学習しなければいけない。それが公共図書館と公教育というものの現代的な形であるというふうに思っているわけです。というわけで、知識と情報に関するインターフェイスというふうに考えたときに、メディアリテラシーの問題は切っても切り離せない問題だというふうに私は思っています。
もうひとつのインターフェイスの話は、探索っていう問題です。つまり私の知りたいことはどこかにある。どこかにあるけれどどこにあるかわかんない、という状態があるわけです。その状態は結局、今のところ、その情報が使えないという状態ですからないのと一緒なわけです。そういう意味でどっかにあるというのではなくて、私がそれにアクセスできるということが大事なわけです。そこにもまた私と情報世界との間にインターフェイスがあるわけですね。私の必要なものが私に得られるインターフェイスというものが自分の前に欲しいわけです。そういうふうに考えたときに、みなさんワールド・ワイド・ウェブ(WWW)でいろんな情報を検索したりすることがあると思いますけれども、だいたい検索サイトを使っていると思います。検索サイトを使って、いろいろと情報を探し回るわけですね。ところがそういう検索サイトが、最近はどんどんどんどんいわゆるポータルサイトと呼ばれているサイトに変わりつつあります。それはどういうのかって言いますと、とにかくインターネット接続するときには、まず私の所へ来て下さいと。そうすると私の所でいろいろな形でメニューがそろっているから、そこからあなたの好きなものが探せますよという形に今変わってきています。そういう意味で昔の検索サイトを使って検索しているときには、自分が探したいものを自分で探すという非常に能動的な形で情報の世界と関わっていくということがあったんですけれど、今や逆に提供する側が分類して待っていてくれているわけです。あなたが知りたいものはこっちにありますよ、こっち来て下さいって誘導していくような形になっています。そういう意味で自分がアクセスしたいものからアクセスさせたいものへという情報のインターフェイスが変わってきているので、このままいくとどんどんどんどん人に引きずられる形になっていくと。ここで大事なことは、編集っていう概念だと思うんです。いろんなものがあるわけで、その中から自分にとって大事なものとそうでないものをより分けて、自分にとって大事なものが一番簡単に手に入るように、自分にとってちょっと大事なものはちょっとめんどくさいけれどわりあい簡単に手に入るようにというような形で、自分の情報空間のインターフェイスを作り上げていくことによって自分の情報環境を作るということができるわけです。だからリンク集とか、みなさん作っている方もいらっしゃると思いますけれども、リンク集を作るっていうのは、そうやって自分の情報空間とのインターフェイスを自分で作って、自分にとって大切なものほどアクセスしやすいように、自分のインターフェイスを作っていくってことですよね。そういう編集という作業がインターフェイスということの観点でいけば大事になっていくというふうに思います。こういうふうな形で必要な知識や情報を得るってことを考えていくといろいろなことが思いつくわけですけれども、そういうときに検索サイトでいろいろな必要な情報を探し回ってもなかなか思うような情報に巡り会わないときがあります。断片的な知識だけをいっぱい抱えて、全体像はよくわからないということもよくあります。そういうふうな形での機械的な探索、こういうことについて書いてあるページを探してねって機械的に探索するのと違って、もっと知的な環境というのもあるわけです。それはどういう環境かというと、例えば教師とかナビゲーター、あるいは案内役という人たちがいる環境です。そこでは自分が知りたいことっていうことを知るために、断片的なキーワードだけを手掛かりして直接それが書いてあるところへ飛び込むんではなくて、そこの世界はこうなっているんですよって案内してもらった上でそこに行くということができる。結局、情報がただ手に入っても使えなければ意味がないわけですから、使える形で情報を得るためには、そういう形での案内役というのも必要になるということがひとつあります。それからもうひとつはインターネットというと、ワールド・ワイド・ウェブばかり使っていてネットニュースっていう方を使っていない人も多いと思いますけれども、ネットニュースの世界はとっても面白くて、例えば、「こうこうこういうマンガがあったと思うんですけれどタイトルわかりますか」ってポーンと投げると思い出せた人が、「それは何とかって人の何とかっていうマンガですよ」とダダダダダッて返事が来る。「こういうふうなプログラムをインストールしてみたんですが動きません。ここの設定どうやるんですか」、「ああ、それはこうやって下さい」って知っている人が返事を書いてくれる。下手すると、「それが動かないのは、あなたのそこの設定のせいではなくて、こっちでこれを入れていないからです」っていうふうにして、思ってもみなかったことを教えてくれたりする。あるいは「あなたがそのことを知りたかったら、その前にこの本を読んで下さい」といって定番の教科書を教えてくれる。というふうな形で、ネットニュースの世界というのは、裏側に知的な人たちがいっぱいいるわけですから、こちらがとりあえず知りたいことを投げるだけでそれに対する答えはおろか、自分が予測もしなかったことに対する指示だとか、あるいはいろんなそういうことを理解するためにはこういうことを勉強したら良いんだよという指示とか、いろいろなことを教えてくれるわけです。そういう意味で、後ろに人がいる環境っていうのは、自分が一生懸命情報を探し回るのとはまた違った利点があるんですね。インターフェイスって先ほど最初、知識や情報を得るためにってことで知識と情報のインターフェイスを考えてましたけれども、実際には私たちが何かを学ぶってことを考えると、裏側にいる人間がすごく大事になることがわかります。私たちが生涯学習なら生涯学習、そのための知識や情報を得るってことを考えたときもやはり知識や情報に対するインターフェイスだけじゃなくて、向こう側にいる人間に対するインターフェイスも考えていかなくてはいけないんじゃないかというふうに思うわけです。
今回タイトルに、協同学習とか協同問題解決という言葉を使わせてもらいましたけれども、これはそういったことを含んでいる概念です。つまり私たちは、知識や情報を獲得してお勉強していろんなことが出来るようになっていくというようなものが学習だとついつい思っちゃうわけですけれども、必ずしもそうじゃないわけですよね。私たちは例えば学習のことを「自分探し」とか「自分作り」っていう言い方をするときがありましたけれども、どんな自分を探したいのか、どんな自分を作りたいのかというためには、自分はどういう場所にいて、どういうふうになりたいのかという、そのモデルがやっぱり要るわけですよね。自分がいたい場所、そこでこういう人になりたいと思うからこそ、そこで頑張って、そういう人間になるように努力するということが起こるわけです。そういう意味で、私たち生涯学習をしていく上でこういうふうになりたい、こういう場所にいて、こういう人間になりたいというのは、ひとつとても大事なことだと思うわけです。そういうふうに考えると、教科書みたいなものを読んで勉強するというのは、あれはあくまでも結果が書いてあるだけに等しいので、これを作っている人たちは一体何を信じて頑張っているんだろう?、一体どういうルールのもとでこれを生み出しているんだろう?ということが教科書読んでいるだけではわからないんですね。こういったことを知って、そういう人たちの仲間になっていくということを学習だというふうに考えるんだったら、やはり知識や情報だけでなくて、そういう人たちの仲間になっていくためのインターフェイスというものが必要だというふうに考えるわけです。そのためにコンピューターを使いましょうというのが最近の学習の分野における流れになっています。これはもともとは仕事の方のコンピューター利用の話から来ているんですけれども、コンピューターを職場で1人1台渡して、ワープロや表計算使えば、会社の生産性はすごく上がるだろうと期待されて大きな会社からどんどん社員に配っていったんですよね。ところが、実際にそうやってワープロや表計算を使えるようにしても思ったほど生産性は上がらなかったわけです。これは何でかっていうと、結局会社の仕事っていうのは1人が何か頑張って済むっていう仕事ではなくて、その部署なり課なりで仕事を共有して回していくことによって仕事が動くというものですよね。その稟議書がまわったりとか、決裁や伝票がまわったりという形で。会社の仕事っていうのは1人の作業ではなくて協同作業だったわけです。ということは一人一人に道具を与えて、ワープロや表計算で武装してもらってもそれだけでは全体の仕事はうまく流れなかったわけです。それよりも、うちの職場では、仕事はこういうふうに流れていくんだから、それがうまく流れるような仕組みをコンピューターで作らなければいけない、というふうな形に変わってきたわけです。その手の研究が、協同作業のコンピュータ支援と呼ばれている分野なわけです。それが学習の分野にも波及してきて、協同学習におけるコンピュータ支援というのがひとつ研究の新しい流れとして出てきました。つまり、コンピュータを一人一人が持って学習しやすくしようねって話ではなくなってきて、コンピュータが教室の中なら教室の中にあって、その中でみんなでどういうコミュニケーションをやったら、みんなで学習することができるのかという形に変わってきているわけです。そう意味でCSCLと呼ばれているコンピュータによる協同学習の支援というものが、最近の教育工学的な研究のひとつのトレンドになっています。それはつまり学習というのが一人一人がただ必死に机に向かって頑張ればいいものではなくて、実はいろんな人がいろんな発想をしたりしながら進めていくものである。それでいろんなことをどんどん言ってみるやつもいれば、人が言ったことをとりあえずじぃーっと考えているやつもいる。あるいは、その言ったことに対してとりあえず反論してみるやつとかいろんな人がいるわけですよね。そういった形で参加することによって、1人の人間で考えているだけでは全然形にならないものを、みんなでよってたかって、いろんな形でサポートし合うことによって、皆で共有できる知識を作り上げていく。そういうふうな形で学習をしていこうねというのが、最近の教育工学におけるひとつのトレンドなわけです。こういうふうなことを考えると、学校という場所だけでそういったものを独占するのはおかしなわけで、コンピュータのネットワークであれば、当然、側にいない人でもそういった形でコミュニケーションできるわけですから、そういったシステムをもっと広げて生涯学習に使っていくことが出来るというふうに思うわけです。つまりそこにある必要なコンピュータのシステムというのは、何か私の得た知識をとっておいたり、整理したりするための道具ではなくて、他の人とそこで交流して考え合うことによって新しいものを作っていくためのコンピュータシステムをそこに作る。それを通して、共同体の中に参加していくことによって、その中で生きる人間として「私」というものを作っていくということが生涯学習のひとつの目的じゃないかなと思うわけです。そういう意味で、うまい情報提供の仕方を考えるということは決して生涯学習を進めていくためのいい手ではなくて、それは孤独な学習者を増やしていくだけにすぎないんですよね。そうじゃなくて、私は私の仲間がいて私より先に進んでどんどんいろいろなものを生み出している人もいる。私よりちょっと早く始めてちょっと先に進んでいる人もいる。そのうちにあとから入ってきて右も左も分かんない、そういえば昔は自分もそうだったなぁという人が入ってきて、そういう人にちょっと親切にしてみたりする。というようなことを繰り返しながら、その世界の中で、その社会の中で生きていく「私」というものを作り、その中でいろいろな知識を身につけていく。そのことを通して自己実現ということとくっついた生涯学習をしていけるというふうに思うわけです。そのためには、知識や情報だけのインターフェイスを考えていちゃダメで、人と人とをどうやって結びつけるかってそういうためのインターフェイスをこれからデザインしていかなくてはならないと思っています。以上です。
コーディネーター:
「どうもありがとうございました。大変情報教育の意味を分かりやすくお話頂けたかと思います。今、村山先生がお話になったように、こういったメディアというものは、孤独な学習者を増やすものではなくて、学習に深まりをもたらすものであり、協同作業をより深めていくものであります。協同作業をより深めていくという意味から考えてみますと、先ほど石川先生からもお話ありましたように、新しいメディアができることは学習の場とか学習に参加する人を増やし、拡大していくということであり、そういうものとして機能させていくことこそが重要であると非常に強く感じました。
それでは3番目に平田先生から『福祉文化の創造と生活者の学び合い』ということでお話をいただきたいと思います。平田先生は、静岡県の社会福祉人材センターの部長をお務めでいらっしゃいます。昭和59年から静岡県の社会福祉協議会にお勤めになり、平成7年から現在の職についていらっしゃいます。先生どうぞよろしくお願いいたします。」
福祉文化の創造と生活者の学び合い
平田 厚
私の事例報告は、お二人の先生がハード面で生涯学習のアクセスの仕方についてお話をしていただきましたが、私は、地域にどのような学び合いの方々がおられるのか、その学び合いの中でどのような生涯学習の体系が作られているのかを、実践的、体験的な中からお話申し上げたいと思います。
実は、今日、静岡の方は様々なマスコミの紙面で、『福祉は文化なり』と大きな見出しで新聞の記事が出ておりましたが、お気づきでしょうか。実は昨日、生涯学習都市であります掛川市でなんと全国から350名の方々が集まり、福祉文化の現場セミナーを開きました。この準備にはなんと半年もかけて、皆様をお迎えしたんですが、私そこでまずプロセス、進めていく過程で学んだことは、こういう「福祉は文化なり」ということを求めておられる方が全国津々浦々にたくさんいるんだなあということを感じました。集まった方が教育者あり、そして無職のご年輩の方あり、学生あり、そしてボランティア活動を実践されている熱心な方、そして市会議員あり、大学の教授、助教授など専門的なお立場の方々が様々な分野から集まっていただきました。遠くは愛媛県、千葉、東京、埼玉、栃木から集まりました。私たちが今求めている地域社会とは何かということを一緒に考える大変大きなフィールドでありました。また私自身、かねて教育学を学びながら、福祉の実践者として約30年あまり勤めている中で、福祉と教育の関連性は大変強いと感じております。福祉と教育の関連づけのその唯一なるものは、人と人との関わりの中でお互いに学び合っていくということ。そしてそれに福祉ということになりますとやはり人の命を預かりながらの生活の支え合いというようなことも出てくるんではないかと思います。今日こちらにお邪魔する前にある印刷会社の方とこんな会話をいたしました。その方は昨日の日曜番組のテレビを見ていたら、東京の都知事さんの対談の中で、もうそろそろ「与える福祉」から「創る福祉」の時代に向かっているんだと。事実私たち、この福祉という言葉を解釈したときに特定の人の、特定の人のための手だてのようなものを考えていたような気がします。石川先生から貴重なご体験の中でいろいろと取り組んでおられるお話を伺いましたが、専門家のお話の中に社会福祉は制度や政策やサービス、それそのものを称して言うんじゃなくて、豊かな生活の探究、追求、あるいはそこへのアクセス、プロセスが社会福祉ではないかとおしゃっておられましたが、そのプロセス、アクセスそのものが、もしかしたら、私自身今日の生涯学習の姿ではないかという感じがいたします。自分たち自ら実践をしながら、そこでアイディアを出しながら学びあっていく、あるいは創っていく。そういう地域社会を求めていかなければならないという感じがいたします。地域で暮らし合うということ、今申し上げたように生活全般の中にやはり教育とか福祉とか文化だとかいろいろなものがある。それを双方向で相互に理解をしていく。これが必要ではないか。そういう世界の中には、生活の多様化とともに一人一人のライフステージがあると思います。そのライフステージをどう作り上げていくかというところの中に学び合いがあったのではないかと思います。
私自身、住民主体のコミュニティづくりをどうしていくかということで、いろいろと話をしたりしているわけですが、まず私たちにとって地域って何だろうかっていうこのへんのところが大きなキーワードになるような感じがいたします。学び合いの中にも大変大きな広域的な学び合いのものと、隣保の中で考えていかなければならない学び合いがあると思います。広域的なものは自分の趣味だとか特技などにより、いろんな所をネットワーク化して学び合いということができます。でも身近な地域で支えていく学び合いとなると、やはりそこには何かきちんとできるものを持ってみなさんでネットワークをしないと支えられなくなります。
例えば、静岡県には74の市町村があります。その中で大変お年寄りの問題が先行しておりますので、事例を申し上げますと、高齢化率、つまり全人口における65歳以上のお年寄りの割合を示すパーセンテージは、静岡県の場合には16.6%が年度始めに打ち出された数字であろうかと思います。これを下回っている、例えば東部のある市部では12%ほどという町があります。しかし、私自身何回もそのまちに足を運んでみる限り、本当にそうかなという感じを受けるときがあります。つまり潜在的に旧来ずっとお住まいになっているお年寄りの姿がそのパーセンテージの中には見えません。その町の全体のパーセンテージはその数字であっても、流入流出の人口の中で結局長いことそのまちで暮らしているお年寄りの姿は見えないような感じがいたします。
また西部の方の過疎の山間部の所ではもう38%にもなる高齢化率を迎えた町があります。その町へ行きますと、学校も地域もみんな一緒に、何か学習しているような雰囲気です。そのように身近な地域社会ということを考えたときに、私が東京へ行って地域を話すと、多分静岡そのものを申し上げるでしょう。私がこうした場所で静岡の特定な場所で話したら、私が住んでいる地域、私は焼津に住んでいますが、焼津という地域について話すことが本当の地域であろうと思います。また焼津には7つほどの公民館の地区がありますが、もしかしたら小学校校区の中で話す地域の話題になるかと思います。このようにまず私たちにとって地域とは何かというところから、そもそも地域学習、あるいは生涯学習の第一歩が始まるんじゃないかという感じがいたします。
そこでまず、ここで一番大切なことは地域課題をどう発見するかというところから学習のテーマが始まって来るんじゃないかと思います。以前、西部の教育事務所が主催しました小中学校の先生方を対象にした研修会の時に、ある若手の教師がボランティア活動を推進するにはどうしたらいいかという研究テーマがありました。その時に、生徒にさせるボランティア活動ではなくて、まず先生自らが地域に根ざした地域人であるかということが話題になりました。
もうひとつは、先生方が学習化するための学習は、地域に何が問題なのかということを問題提起をするということがボランティア活動の第一歩なのではないかと論議しあったときに、石川先生の前では大変申し訳ない言い方かと思いますが、今日では、障害者とのふれあいや交流だけではなくて、その立場の方々のこれまでのいろいろな生活の中でのご苦労なんかを理解する。そして理解してこそ、障害者に対してどのような支援をしたらいいのか、あるいはお年寄りに対してどのようなケアをしたらいいのかということが出てくるのではないかと思います。ここが一番大切な切り口ではないかということで、私は地域の中にどのような学習課題があるかということを発見するということがまず第一に必要だということを痛切に感じています。身近な地域社会で支え合っていく、このことについては、私自身、県の教育委員会の生涯大学、葵学園の研修でボランティアの話をしたり、私自身が人材を育成するという立場から様々なイベントや学習に取り組んでいますが、障害者問題はじめ、高齢者問題、そして子どもたちを取り巻く家庭や地域、あるいは学校の問題、そして在日されている外国人への生活支援の問題などに一般社会人がまだまだこの世界2割8割の関心だってことなんです。2割男性です。8割が女性です。福祉やボランティアへの関心は、何とか男性よ、出番だよというところへつなげていく学習形態も必要でありますし、また女性の方々にしてみればやはり男性よ、お父さんよ、出番だよというところをどうつなげていくかということが、必要ではないか。そのためにも地域の方に目を向けていくというところの視点をこれから私たちは働きかけていかなければなりません。
それでは学び合いの場というのはどんなところにあるのかということですが、先ほど申しましたように、今までは待っていても、それなりの手だてをしていただいたという考え方から、やはり受動的なものから能動的なものに変えていく。私に何が出来るかという自分の持ち味をやはり地域の方に持ち出す。こうした事例では、佐久間町の高校なり中学校がサロン化している雰囲気があるということです。過疎化している町では、おじいちゃんもおばあちゃんもその学校に行ったらお茶を飲みながらでもお孫さんの学習がみられる雰囲気を今、社会教育にいろいろ関わった先生が一生懸命努力をされている。高校生も単なるボランティア活動をさせるのではなく、地域と一体となった生活者としての学びのフィールドを持っているということ。私は地域全体が学習化しているフィールドであるという感じがいたしました。
また県教育委員会が実施している、生涯大学で学んでいるご年輩の方々に、私が強調したのは、何といってもみなさんだけ仲良しこよしで学ぶ生涯学習であってはならないということです。若者と共生をして初めて自分たちの存在感をお互い理解し合っていくのではないかということで、単に60代の方々がどうすればボランティア活動ができるかではなくて、今若者はこんな活動をしている、そして企業の人たちも労働組合でボランティア活動をして地域と共生しているというような感じのことを申し上げ、そしてその中でお年寄りが地域の後継者をつくるには若い方々を巻き込んでやっていく仕掛けをして欲しい、コーディネーター役とかアドバイスしていくなどを強調してまいりました。
福祉の担い手は大きく分ければ3つに分けられるんではないかと思います。まず専門的な立場の担い手、次にいろんな団体の職員のような間接的な担い手、3つ目は地域に暮らし、ボランティア活動にはげむ方々も担い手であるということです。今日の社会の中では、全ての県民、全ての住民が担い手でという時代の中での学び合い、相互に理解するものは非常に多くあるのではないかと思います。今年の「ナイトスクール」(働いていても、学校に通っていても福祉のことを2時間程学ぶ人材養成の講座)にみんなが一堂に集まって学習する環境では、高校生、あるときには中学生もいました。年輩の方では80歳の方々まで、延べ約1500名の方々が学びあったその雰囲気をふりかえってみますと、講師のお話を聞くことよりも会場に来て、思っていた以上にいろんな方々が今地域のことに関心を持っているんだなと感じることが有益な学習のフィールドであったんじゃないかというように感じます。つまり学習環境作りによって生涯学習の一歩が始まるんじゃないかということです。とかく輪切りで家庭教育、社会教育など公民館やいろいろな場所で行われていますが、その中に異年齢あるいは異文化、異業種といった、そういう方々が学び合うことこそ本当の意味での生涯学習ではないかということを私自身実践しながら思っています。だからこうした雰囲気で行われる限りでは、今日の会場はまさしく生涯学習・地域総合学習の雰囲気ですねって申し上げたことがしばしばありました。
地域を超えた現場セミナーを昨日やってまいりました。『人間らしく豊かに生きていくことを目指して。今文化としての福祉を語ろう』をテーマにして、掛川にあります宮城まり子さんのねむの木学園で、「福祉は文化なり」という視点でいろいろな角度から掘り出してお話をしてまいりました。このセミナーではやはり、「福祉」「豊かに生きていく」などを創りだしていくということが大変重要なんだということを現場で学びました。お手元の資料の25ページに、私ども、「静岡福祉文化を考える会」がございます。これは私たちライフワークの中で取り組んでおりますひとつの活動です。ちょうど5年前に取り組みました活動が花開きまして、今回の現場セミナーにつながったわけです。私たちのこの会のメンバーは高校生から80歳に近い方々までが一緒に地域問題や福祉を文化にすることを実践し学習しながら、取り組んでいます。今までに3つほどの調査もいたしました。「共働きに対する調査」(平成9年)「地域って何だろうかの調査」(平成10年)、そして今年度はもっと小単位の、「家族って何だろうかの調査」です。「家族って何だろうかに関する調査」は千件ほどの回収によって会員で分析をしておりまして、3月には公表するというところになっております。こうした試みにより、「足元福祉」あるいは「身内福祉」の中から私たちの支え合いを考えていきたいと考えています。
本日(平成12年1月17日)12時に、ラジオテレビを見ておりましたら、黙祷の時間がございました。本当に今日の生涯学習のシンポジウムが意義ある記念すべきことは、今から5年前、阪神淡路大震災の起こった日であります。5年前の6時前、早朝に大きな災害があった。その時にマスコミが報道したのは、今日会場におられます若い方々が一目阪神・淡路にボランティア活動に行ったということです。今振り返ってみますと、私どもはあの年を「ボランティア元年」とも言っておりました。改めて「ボランティア元年」と言われて5年経ったボランティア活動のチャンスは自分の持ち味で、自分を豊かにするために実現する取り組むことにより、地域の豊かさをフィードバックするんだと。ボランティア活動は自分発見のチャンスでもあり、自分の豊かづくりでもありますから、このことは今日の生涯学習というところにも大きくつながっていくように感じます。
とかく人に何かしてあげるという考え方から、やはりいろんな人との出会いの中で学び合うということは、私自身も、今までにいろいろな体験や実践をして感じるところです。そこには、はっきり言って「自立支援」という大きなキーワードがあります。生涯学習で学んだその延長線上には、地域の方々が求めているものは何かということをきちんと理解していかなければなりません。「自立」ということをきちんととらえたときに、その方に何が必要なのか。あるいは私たちが何を学ぶことが出来るのかということを常に双方向でキャッチボールしながらやっていきますと大変大きな支え合いの社会を創りあげることが出来るだろうと思います。宮城まり子さん(ねむの木学園)と現場セミナーのことで何回も打ち合わせをすすめてきた中で、何か頼むときだけお願いする、それがボランティアなの?ってよく強調されました。信頼関係で、お互いに学習していく沿線上の中で物を創りあげていく。これがもしかしたら、ボランティア活動の果たす大きな役割なのではないかという感じがします。
私自身振り返って思うことは、関係づくりの必要性であります。今日、教育という立場の中に私が福祉ということを申し上げてもいきなり相互理解できることは難しいことですが、私も教育に関わっておられるみなさんの熱い思い、そのご苦労をやっぱり理解しない限り、福祉との共生はできないと思います。先日、市で「精神保健福祉ボランティア講座」があり、約2時間みなさんといろいろな学び合いをしてまいりました。その会場になんと学校の教師が何人もおられたんです。その沿線上に学校の校長先生から、今度2月に生徒のボランティア学習会があるんだけれども、協力してくれないかと。私は本当にうれしかったのは、やはりそういうふうな精神障害者を取り巻く問題をはじめいろいろなものを先生自らが地域を理解していただくための講座に出て下さっているわけであります。先生の中には沿線上では養護学校の先生もされて、そして今地域の中学校の先生をやっておられたり、校長先生もやっておられたりして、これはお付き合いの中で、「関係づくり」が生まれてくるものではないかと思います。また今までにも先生方にもよく申し上げておりますが、地域にどんなものがあるかということをわかって学習化していただくと、私たちもそこにどんなものがあるかということを情報提供できるわけです。情報提供できることによって、先生方はただ机上論でお話をするよりも、じゃあそういうことを小学校4年生の公民館のいろいろな機能の中に入れて学習できると理解されます。こういうふうに発達段階で、あるいはいろいろな家庭の中で教育を福祉化していただく。
また私たちは、福祉を教育化していくという相互の理解みたいなもの、これがあると大変素晴らしいお互いのキャッチボールが出来る「生涯学習」という感じがします。先生が変わり、そして生徒が変わり、そして地域が変わり、私たちの住みやすいまちづくりが出来るんだということをその都度研修会で申し上げて、お互いにキャッチボールできるものはしたいですねと申し上げております。
世代を越えた学び合いもあります。昨日も、現場セミナーに、遠く愛知県から学生が私たちの裏方のボランティアに来てくれました。彼なんかは、自分が高校の時にいろいろな研修会に出てみて、ただ理屈だけではダメだということで私たちのフィールドに参加して、自分が年輩の方々からいろいろとお教えを得ながら、学校では学べないものをボランティアで学んで帰っているようです。
具体的に申しますと、そこまで進めてきた現場セミナーの企画の仕方とか、あるいはそこの中でクリアしていかなければならない大人の考え方を学生の立場で検証しています。時には、「これまずいんじゃない?」って言われたときに「そうじゃないんだよ」って否定することなく、「そのことも一理あるね」って、このことが単なる会場の中で学ぶ、教室の中で学ぶ学習ではない地域全体で学ぶひとつの仕掛けではないかなという感じがいたします。そういうことから異年齢の中で学ぶ意義は大きいと思います。企業人の方々と関係づくりをする中で、やっぱり見る目が甘い、福祉は忙しいとよく言っているけれども企業の忙しさとは違うそ厳しさも指摘されます。つまり私たちにとって、企業人に学ぶ私たちの心がけは、大きく、いろんな研修を積み上げていくときに、そこで大きく活かされます。こんなように業種やあるいは領域を超えて、そしてお互いにキャッチボールをすることによって、関係をつくることによって、いろんなものに発展していく。それがもしかしたら地域で学ぶ生涯学習という視点になるのかとないうことを実践を通して思うことです。
最後に、「福祉文化」という言葉は、造語の範囲でありこれから体系化されるものだと思います。ただお互いに福祉という言葉を単なる特定の領域で考えることなく、豊かさとか、あるいは生活の豊かな中で暮らし合うことや、こうした考え方で創っていき、お互いに生きる喜びみたいなものを創造していくプロセスが大変意義があることと思います。ある専門家が、専門家集団と素人集団がかけ離れていてはダメだとおっしゃっています。つまりそれが一体となって地域の中で共存していく。例えば私どもがついつい専門的な立場で考え方を言いますとそのことが住民の方にはなかなか通じないこともしばしばあります。「福祉」を一言で表現するにも、小学生が「福祉」という言葉を理解することと高校生のそれとは当然違ってきます。本当に世代やいろいろな領域の中で語り合っていく中で、一人一人がお互い分かり合うには、そのプロセスと言うんでしょうか、過程が非常に大事なような感じがいたします。大学における生涯学習的視点と、誰もがもっています、趣味を通じていろいろなサークルを作ったり、あるいは時間外にネットワークをはかる所属意識もあります。そのいくつかの所属意識や、いろいろなボランティア活動だとか、職場だとか、あるいは趣味だとかそういうものがありますと、その所属の中でお互いに学び合うというところが、もしかしたら生涯学習の原点ではないかという感じがいたします。常日頃思っている立場から生活者との学び合いを申し上げました。
コーディネーター:
「どうもありがとうございました。今、地域の中で支え合うということが非常に重要な意味を持っているということで具体的な例に基づきながらお話しをいただきました。俗な話ですが、二つの「シャキョウ」があるとよくいいます。ひとつは、平田さんの所属しておられます社会福祉協議会、縮めますと「社協」と言います。それから社会教育というのを縮めて、「社教」と言います。お話をうかがいながらこの二つの「シャキョウ」が、まさに一体化していくことがこれから重要ではないかと思いました。私どもは、ボランティア活動を考える場合にもそう思うのですが、ともに活動し合うことが重要なのだと感じるのです。ともに活動し合うことによって、初めて気持ちが通じ合うからです。気持ちが通じ合わない限り、学習というものは成り立たないし、豊かさというものは生まれてこないのではないかと思っていますが、平田先生から非常に適切なご指摘をいただいたと思っております。
それでは、ここで5分ほど休みを取らせていただきたいと思います。」
パネルディスカッション
コーディネーター 常葉学園大学教育学部教授 角替弘志
パネリスト 石川 准、村山 功、平田 厚
コーディネーター(角替):
「先ほどは石川先生から『アクセシビリティの政治』、村山先生からは『協同学習・協同問題解決のためのコンピュータ支援環境』、平田先生からは『福祉文化の創造と生活者の学び合い』というテーマでいろいろご提言をいただきました。
ハードの面からも、またソフトの面からも学習のあり方というものは、常に幅広く考えていかなければならないのですが、現実に幅広く考えて、それを実行することが実際に可能になってきていることを3人の方々のお話を聞きながら強く感じました。
あわせてもう一点は平田さんのお話からも感じたことですけれども、このことは村山さんのレジュメの中でも多少触れられておられるのですけれども、いわゆるフォーマルな学習にインフォーマルな学習をどのように組み込んでいくかが、これからは非常に必要になってくるということです。インフォーマルな学習を自覚的に行うというのはちょっと矛盾していることに違いないんですけれどもその部分がやはり非常に重要になってくるだろうと思います。
また村山さんのお話の中にありましたように、いろいろな人との相互理解を深めていくためにハードが非常に有効に機能するのですが、その辺のことについては石川さんも非常に強調してお話下さったところだと思います。ハードの発達というのは様々な条件に置かれている私どもを一体化していく、つなげていく、そういうことに大変重要な役割を果たしているということを改めて感じたわけです。それぞれの方々から多少補足的なご意見を頂くということと合わせまして、それぞれの参加していただいております大学の方からもコメントをいただきながら進めてまいりたいと思います。
始めに、石川さんには『アクセシビリティの政治』というタイトルでお話しをいただいたのですが、政治という点からもう少し補足のご発言を頂ければ…と思ったのですが、よろしいでしょうか。」
石川:
「少し補足させていただきます。道具というものは、私たち生きていく上でとても大事なものなんですが、道具は誰でも同じように使いこなせるとは限らないし、あるいは自分にとってうまく適合性がある道具が社会的に与えられているというわけでもないわけですね。そういう中でしかし何らかの工夫をしたり、間に合わせ技術を工夫したり、何とか使いこなすということをやって人は生きて行くわけですけれど、個人的な努力じゃいかんともしがたい局面が必ず出てきてしまいます。特に今日のような非常に高度な、また潤滑された道具になりますと、あらかじめ開発したものが予定したように使わないと機能しないと、融通とか間に合わせが効かないようなそういうふうな道具が世の中に増えてきます。そうなってくると個人の努力じゃどうしようもないので、それを何とか、しかしユーザーサイドに近いところで問題を吸収するようなテクノロジーが考えられる。先ほど申しましたスクリーンリーダーなんていうのは、非常にトリッキーな方法を駆使して、スパイまがいの、クラッキングまがいのことをしながら、OSを何とかアクセシブにしようとするんですが、皮肉なことにようやくそれなりに熟したものが出来たと思ったそのOSはもう世の中にないという状況になってしまう。そうなったときに初めてそういった個人的な努力であるとか、間に合わせ的なつじつまあわせとか適応、そういったことではどうにもならないということに気づいて、ようやく政治化、ポリティサイゼーションというものが出来てくるということですね。例えば今のコンピューターとかネットワーク、インターネットといったようなものが、私たちの生活にとって非常に大きな意味を否応なく持つようになってしまったときには、開発する、供給する側に社会状況、社会情報倫理といいますか、情報へのアクセシビリティ、道具のアクセシビリティについても一定の責任がかかってくるということを社会は合意しなきゃいけないし、そのための発言とか取り組みをやっていかなければならないということでいろいろなところでそのための努力がなされているということを申し上げたかったわけです。」
コーディネーター:
「どうもありがとうございました。村山さん、今の石川さんのご発言に関わってご意見聞かせていただけますでしょうか。」
村山:
「そうですね。個人の間に合わせでおっつかない状況をどうするかということに関していえば、例えばOSみたいなものが変わってっちゃうのは、どうしても政治的なという部分でいかなければならないですけれど、自分らで出来ることはやっぱり自分らでやっていかなければならない。まあ当たり前のことですけれど。
例えば、私今回ちょっとしゃべろうと思って時間がなくてはしょっちゃいましたが、例えば共有するっていうことがあって、私たち自分が知らないことを調べたときに、いろんなもの探してまわって得られますよね。そうしたら自分が「ああ、わかった、なるほど」っておしまいにしたら、それで自分が一生懸命努力した結果は自分で享受しておしまいってなるわけですが、それを例えば先ほど言ったように、リンク集という形で共有できるようにしておけば、次の人は探し回るかわりにリンク集を見ればそれで済んじゃうということになっていくわけです。一人一人のそういう努力っていうのがいろいろなところで毎回繰り返されるんではなくて、誰かが努力した結果がみんなの所に反映されるというようなシステムを作っていくということは大事じゃないかなと思うわけです。その時に例えば、全文検索系のサーチエンジンなんかでいろんな情報を探したときに、たくさんひっかかるけれども当たりが全然ないというので苦しむことが結構あると思うんですけれど、リンク集もそういう側面を持っているんですが、人が見に行くっていうこと自体が大事な情報なので、見に行った人が見れば、ここは役に立った立たなかったって思って、すぐにそこを去ったり、一生懸命読んだりするわけですよね。その一人一人の個別の努力が結果的に集積されて、みんながたくさん見に行くところはみんなから見やすくなるとかそういった形のシステムを作っていけば、一人一人は自分の目的のために必要な知的な努力をはらうだけですが、そういったものが結果的に集まることによって、次に同じことをやろうと思う人が楽になるシステムというものが作れて行くんではないかというふうに思っています。そういった形で済むところはひとりの間に合わせでなくて、みんなの間に合わせで何とかして、それでもダメなものは石川先生のおっしゃるようにやはり政治的な問題として処理しなきゃいけないんじゃないかなと思います。」
コーディネーター:
「平田さんどうですか。石川さんがご指摘になられた点、非常に大事な点だと思うんですが。」
平田:
「たしかに新たな社会ニーズというか、福祉ニーズの問題としては、やはり政治問題に発展して予算を獲得して保障につなげるというか生活を豊かにするということは、ものすごく私たち必要だと思うんですよ。ひとつ私自身、施設の現場に行っていろいろなことを見たり聞いたりしていて、原点をきちんととらえて福祉を進めていきたいという方もあります。例えば社会福祉法人という形で国やいろいろなところの援助を得て運営したいということでおやりになっているところと、やっぱりそうじゃなくて無認可でもボランタリーな世界でやっていこうという世界ですね。もうひとつ生涯学習の視点で事例を申し上げますと、拘束されて予算があってそれを消化しなければならないという講座とかそういうところに動員をさせられて学ぶ学習ということよりも、高校生が地域に出て環境問題を学ぼうといったときにその環境問題を高校生自らが仕掛けをして、大学の先生や地域の方々が参画してやっていく講座ということとは、また自ずと価値観が違うんですね。私は考え方としては今の高校生が環境問題を地域でみんなで学ぼうということから、高校生のWorking for the earthという高校生ボランティアグループが県内に30名くらいの若者が集まってやってしまったと。そこで国からの助成金でもって環境マップを作って、各学校の方に配布したというところまでのプロセスを追うと無から出る学習の形態もあるのかという感じもしました。」
コーディネーター:
「今日、大分大学の岡田先生が多分参加して下さっていると思うのですけれども。突然で大変恐縮なのですが、実はアクセスということについて以前広島グループが研究していたということを私ども聞いているのですけれども、石川先生のお話もアクセスというところに大変関係あると思いますので、何かそのことに関わってご発言していただけますでしょうか。」
大分大学(岡田):
「はい。以前共同の研究でアクセスについては研究したことがあるんですが、今日お話を伺っておりまして、大分大学では福祉を看板にしてある程度大学の方でも取り組みをしているわけですが、生涯学習を研究しているもののアクセスのイメージ、想像する範囲というものがずいぶん限定されているなと。障害者の方の学習へのアクセスというものをどこまで考えていたのか。それから新しいメディアが出てきた場合のアクセスというものをどう考えるのかという意味では、これからアクセシビリティの中身をさらにもうちょっと検討していかなくてはならないのではないかということを今強く感じているところです。」
コーディネーター:
「ありがとうございました。今、大分大学の岡田先生からそういうようなコメントをいただいたんですが、石川さんもう一度ご発言いただけますか。」
石川:
「いくつかちょっと今、頭に浮かんだことをとりとめもないかもしれませんけど、申し上げたいと思います。ひとつは、教科書というのが多分遠からずマルチメディア化されてマルチメディアブックみたいなものになってくると思うんですが、みんなが使えるようなマルチメディアブックをどうやって作っていけばいいのかというような意識でもってマルチメディア型の教科書のことを考えている人は、まず日本にはほとんどいないんじゃないだろうかという疑念があります。
それから政治家というふうに言ったんですけれども、ものが作られてそれが消費者まで届く間、川の上流から下流という言い方が適切かどうかわかりませんけど、流れで、今までのやり方っていうのは、一番下流の所で何とかつじつま合わせようということだったんですよ。それはもう現実的ではない時代になって、そういうやり方では到底適応できないということになってきたという現実認識があって、そのもとではなるべく上流の方で問題解決して、つまりユニバーサルデザインであるとか、バリアフリーを設計の中に入れてもらうことが社会的な費用負担という意味でも、それから情報への平等なアクセスという意味でも望ましい。それぞれの企業にとってもそれはまあ市場原理からすると余計な負担であるかもしれない。そこの部分を社会的にどうシェアしていくのか。企業だけが負担するということと社会的なそういうふうなことをやった企業は報われるようなシステムを例えば社会的に作るというのもひとつでしょうし、法的に規制するというやり方だけではないと思うんですが。そういったことがあるだろうというようなことも考えます。
それからちょっと話は違うんですけど、今教育とか学びという話なのでひとつちょっと頭に浮かんだんですけど。盲人というのは、以前から非常に情報がない状態で暮らしてきたんですね。そうすると「いかにして情報がなくても生きていけるか」っていうことを一生懸命やってきていて、つまり自分の体験を活かすとか、自分の頭で考えて断片的な情報から全体を構築したり推測したりするということをやってきています。それは、非常に我流であったり独りよがりだったりということもあるし、全くとんでもない勘違いをしてしまっているということもあり得るわけですよ。しかしそうやって暮らしてきたわけです。そういう能力を持った人、つまり部分から全体を構築したりとか、自分の体験をうまく利用したりとか、頭でいろいろ考えたりすることが得意な人がサバイブしてきたわけです。情報が非常に入る時代に、盲人にとっても情報が入る時代になってきたんですけれども、どうやって入ってきた情報を処理していったらいいのかといったら、やはり戸惑うわけです。つまり情報が過剰にある中で自分で選んでいかなきゃならないし、だけれども今までの生きてきたスタイルと違ってくるものですから、ギアをチェンジしないといけないんですけれども、どうやったらいいのかなかなかわからない人たちが少なからずいるということが罪かなとちょっと思ったりしています。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。今お話を承りながら感じたことは、環境問題を考える場合とかなり共通している部分があるということです。環境問題でも全体の仕組みを考えながらいかないと、今、石川さんが何回もお使いになった言葉のように、間に合わせ技術、つじつまあわせで、ユーザーの側が何とかしてつじつま合わせしていくということだけでは、限界があります。その意味では情報の問題も環境問題と全く同じだと思うのです。ユニバーサルデザインということから考えれば、全体をきちっと見通した上でそれぞれの仕組みをどう作るか、非常に大事な問題になると思います。また、視点は少し違いますが、石川さんのお話を聞きながら思ったことは、障害を持っているために情報があまりないという中でも、自分の考え方とか生き方のようなものをその限られた中で組み立てていく力を持つようになるとすれば、かえって障害を持っている方々の方が自分の考えというものをお持ちだという気もするのです。その辺はどうなんでしょうか。」
石川:
「あまりオプチミスティックにも言えないし、ネガティブにも言いたくないという気分が私にはあって、しかしそういう生き方しか選択肢がなかったから、そういう方向で頑張ってきたということはあると思います。」
コーディネーター:
「なるほど。ありがとうございます。
それではさらにこの話を発展させていかなければと思っておりますが、すこし他の機関の方からもコメントというのでしょうか、ご感想等を含めて、問題提起もしていただければと思っております。最初に筑波大学の方からご発言いただけますでしょうか。」
筑波大学(野村):
「はい。大変面白い発表を聞かせていただいたと思います。ありがとうございます。石川先生のスクリーンリーダーですか、初めて見せていただきましたが、とても面白いと思いました。これから、高齢化社会になっていくわけですけれども、その中ででもこういうような技術というのはすごく必要になってくるんじゃないかなと感じました。石川先生は視覚障害の方からのご研究だと思いますけれども、例えば高齢化だとか他の障害といった点から、こういうような技術をどういうふうにお考えになっているのか、もし伺えたらと思います。
それから村山先生の方と多分だぶってくるんですけれど、村山先生も情報教育の方がご専門でしょうか、ちょっと違ったら申し訳ありませんけれども、著作権ということが少し問題として出てきていたと思うんですが、現在身の回りでも著作権の事が話題になっておりまして、今後こういうふうに情報を共有していくときにですね、著作権がすごく問題になってくるように思うんですが、先生方はどのようにお考えになっているか、もし何かお考えがあればお聞かせいただきたいと思います。
それから村山先生にもうひとつちょっとお願いしたいんですけれども、協同学習をするために共同体というものを作っていく必要があるんじゃないかなと思うんですが、そういう共同体、特に情報、コンピューターを介して共同体というものをいかに手応えのあるものにしていくかというのが今後の課題ではないかと思うんですが、先生のご発表の最後の方にも少し方向を出していただいていたかと思うんですが、今後どういう方向で共同体というものを作っていくかという観点から、今後の方向をぜひ教えていただきたいというふうに思っております。
平田先生のご発表もすごく面白くて、特に若者との共生というお話、異年齢、異業種の方々が集うというようなお話があったと思いますが、実際にはとても難しいことではないかと私は思うんですが、実際にそういうようなことがあるという事例のお話をいただきまして、どういう工夫というか、仕掛けをなさったかということを是非伺いたいと思います。それと関わってなんですが、平田先生の所に集まっていらっしゃる方というのはどういう方なんだろうと。特に福祉に興味がお有りになる方が集まってくるのか、それともそうではない人も巻き込めるような何か仕組みというか工夫があるのかというようなことがありましたら、是非伺いたいというふうに思います。お願いします。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。高橋さんからもご発言頂けそうだと情報をもらってはいるのですが。高橋さんいかがですか。ご意見をお願いしたいと思います。」
筑波大学(高橋):
「私の方は事前にそういう情報いただいてなかったんですが(笑)。それでは村山先生の方にひとつお伺いしたいんですけれども、協同学習のためのコンピュータ支援環境というようなものを作っていくときにですね、そこに参加する権利というものもあるかと思いますが、逆に参加するために最低限持っていなければならないリテラシーと、逆にそのイリテラシーの境目となる部分はどのようなところになってくるのかというようなことを何か教えていただきたいと思います。といいますのは、そういったような出来るだけ便利なものを作っていこうとすると、逆にそれを活用できる範囲というのが逆に狭くなってくるというようなことも考えられるんではないかなーと思いまして、そういうようなことをお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。それではいくつかご質問も出ましたのでご意見をいただくようにしたいと思います。
はじめに視覚障害以外の障害を持つ方についてのお話がございましたけれども、補足してお話いただけること、石川さんございますでしょうか。」
石川:
「えっとそうですね、私がやっていることは、アシスティブ・テクノロジーというふうに呼ばれていまして、支援工学とか支援技術というふうにいっています。これは広くとるとユニバーサルデザインも含みますし、また先ほどから間に合わせ技術といってきましたが現状をギブンなものといたしまして、そこで何とか解決するための方法、技術を作っていくという広い範囲を含んでいると思うんですけれども。私が主としてスクリーンリーダーといってきましたのは、開発側からの積極的な協力なしにこれまでスクリーンリーダーというものを開発してきているんですが、それではダメなんですね。急速にしんどくなってきているんで、ユニバーサルデザインまでは一足飛びにいかないけれども、OSメーカーとの間に一応の協力関係を作ってうまくとれるような蛇口を作るというようなそういうことをしています。そういう蛇口ができると、例えばそのOSメーカーはアクティブアクセシビリティ、ちょっと専門的になりますがアクティブアクセシビリティというふうに呼んでいる蛇口なんですが、それを使うと、例えば学習障害の人でしたら、学習障害の人にとって望ましい情報提示の仕方というのが、学習障害というのも非常に多様ですから例えば記憶障害を持っている人で言葉が単語が出てこないというと単語を出してくれるというインターフェイスを持っているようなものであるとか、あるいは難読症の人たちは文字を読むのに見てなかなか意味がとれないけれども、音で聞くとわかるということで、アメリカのラーニングディスアビリティの人たち、学習障害の人たちは実は録音図書のヘビーユーザーなんですね。視覚障害者以上に実は録音図書のユーザーでして、もともとリコーディング・フォア・ザ・ブラインドというふうに言われていた録音図書の図書館がありまして、盲人のためのリコーディングをやっていたところなんですが、70%の利用者が今や学習障害者になっているということがあります。ですので、あるひとつの基礎的な支援技術を確立すると、それを使ってそれぞれの多様な人々の、そういうユーザーに対して違うアプリケーションとか、違うスクリーンリーダーみたいものを作っていくことが出来るということができます。聴覚障害の場合は、例えば字幕を付けたいわけですけれども全部手で入れていくのはこれは大変な話ですので、例えば音声認識を利用して自動字幕付けということを例えば考えてみようだとかですね、いろんなことがあります。
もう一点だけよろしいですか。情報についてですけれど、情報というのは確かに一番使い勝手が良いのはテキストなんですね。テキストになっていれば、そこから出発してそれぞれ、音で聞きたい人は音にするし、点訳にしたい人は点訳にするし、拡大したい人は拡大するし、活字で読みたい人はプリントアウトすればいいわけで、テキストというのは一番自由に加工できるものなんですが、逆にいうと一番ヴァルナラブルなものというか、財産権として見た場合にすぐに盗まれてしまったり、流用されてしまったりということで、みんな一生懸命ある種のジレンマがあるわけですね。みんなにとって便利なものであろうとすると、オープンなものであったり、プレーンなものであったりする方がいいんですが、それだと例えば辞書をプレーンテキストで販売してしまうと、またたくうちにライバル会社に全部コピーされてしまうかもしれない。そういうことが出来ないようないろいろ鍵をかけたり、暗号化したり、いろいろなことをしてある特定のインターフェイスを使わないと利用できないようにして商品としてようやく売ることが出来るということがあって、そこに社会と知的所有権や財産権との間のある種難しいジレンマがあるわけです。私が働いて私が生み出したものが私になるからこそ頑張れるということはもちろんあるわけだから、なんというか、美しい話だけを語るわけにはいかなくて、みんなで一生懸命やればいいじゃないですかっていうふうなそういう話だけだと続かないんですね。そこが政治といったり、経済といったりしなければいけないことではないだろうかと思っていることです。」
コーディネーター:
「今の問題は、著作権のことに直接に関わってきます。そのことにつきましては質問もありましたので、村山さん、まず著作権のことについてお話しいただければと思います。」
村山:
「あの大分の岡田先生のアクセスの話とも絡んでいると思うんですけれども、持っていない人がどうやってアクセスするかという話はひとつのものの考え方ですけれども、逆に持っている人がどうやってシェアするか、共有できるようにするかということもひとつの問題の考え方だと思います。そういう意味で私はアクセスの問題よりもシェアの問題を考えたいと思っているんです。その時に著作権というのは基本的にいいものを生み出した人がそれをみんなに使ってもらえるというための仕組みなわけですよね。つまり著作権によって自分の作ったものが保護されているからこそ、安心して外に出せるわけで、改ざんされたり、悪用されたりしたら絶対イヤなわけなので、そういう環境のもとでは自分が持っているものを絶対出したくないわけですよね。そういう意味で著作権というのは、著作者に一定の権利を認めることによっていいものを作ったら、ちゃんと外に出してね。そしてみんなでシェアしましょうねというシステムなんです。ですので私はやっぱり著作権というシステムはシェアしてもらうために必要なシステムだというふうに思っています。この問題は、アクセスをシェアの問題から考えていくという上で、こういう形のルールを作っていくということはやっぱり必要なことだと思います。それは先ほど出したネットニュースの話もそうなんですけれども、何か質問してみんなに教えてもらってわかった人は、自分がどういう問題を抱えて、どういうアドバイスをもらって、どうやって解決したかっていうことを、最後に文章にまとめて残していくというそういう暗黙のルールがあるんですよね。そうすることで同じ問題を抱えた人がもう二度と同じことをしなくてすむようになる。今自分がそうやって持ったら、それを共有できるような形で残していくというシステムが出来るというのが大事なことで、そういう意味での著作権の問題もそういう枠組みのひとつだというふうに思います。」
コーディネーター:
「著作権の問題は、非常に難しい問題で、シェアするという意味ではまさにそうあるべきだと思うのですが、現実的にはかなり問題が生じ、バリアみたいなものとして認識されてしまうことが全くないとも感じています。石川さん、そのへんどうですか?これは非常に難しいですが。」
石川:
「そうですね。例えば、電子媒体の新聞というものがありますけど、筆者名のついた記事は配信できないんですね、著作権上。そうすると紙媒体は、みんな全部の記事読めますけれど、例えば電子媒体を使って新聞を読めるようになったとはいいますけれど、肝心要のライターがいる記事は読めないんですね。一番一般的な記事は読めるけれども、論説だとか、外部の書き手が書いたものであるとかは読めないんですね。」
コーディネーター:
「そういった問題が私どもの気づかない点で意外に盲点になっているように思います。平田さん、福祉の問題に直接関わっているなかで、そのようなことをお感じになることはありますか。」
平田:
「ええ、私ども視聴覚メディアの関係では、いろいろと学習するのに、例えば番組をコピーして皆さんに見ていただくときに必ずクリアしなければいけない、そこら辺の所で内部資料であるのか公に見せるのかというところもよくありますね。私ども、昨年10月に福祉情報センターというのがリニューアルオープンいたしまして、幅広くみなさんに学習に使っていただくということでありますが、映像メディアとかビデオとかそこら辺のところはかなり慎重にやらなければならないというのは私どもの担当者も心得ております。」
コーディネーター:
「この問題については、私ども広く生涯学習の問題に関係する者は理解を深めなければならないと思います。著作権そのもののありかた、具体的な問題についてもきちっとした理解を深める、そういったことが今後必要だということを改めて今日私も感じまして、この点はいろいろな面から啓発をしていく必要があるのではないかなと感じました。
それでは平田さんへのご質問で、若者との共生ということでのご質問ございましたのでそのことについてお答えいただければと思います。」
平田:
「ご質問が2つあったかと思います。どのようなネットワークの工夫をしているかということ、それからそういう仲間は本当に福祉への関心ある仲間であるのかと。私が常日頃から考えていることに青少年のサポートシステムの形成というのをよく思います。ここにはやはりこの世界、理論と実践の繰り返しみたいなものがあってしかるべきだろうと。ただ学習で終わってしまうということでなくて、それを実践化する、あるいは活動につなげていくときに、ネットワークで作られた若者というのはフォローアップの関係だと思うんです。要するに学習したものをさらに自分のフィールドでもって学んでいこうとする。こういうお誘いが共感関係で今にあるんではないかと思います。この件で私はサポート作りはハード面とソフト面。つまりソフト面は学習の延長線上で、じゃあまた施設の方へ行こうかとか障害者の方とふれ合おうかとか、そういうお誘いができます。ハード面は何にしても先ほど石川先生がおっしゃったとおり、やはり政治との絡みで、健全育成だとかって堅い教育行政だとか、そういうところでもって見守るみたいな形のものでなくて、地域の住民の方々がそれぞれの分野でソフトに受け皿を作ってあげるという、このようなシステムというのが、相互学習になるんではないかと思います。
人材発掘ということでは、私自身そういう若者が決して福祉に関心あるものだけではないと思います。つまり福祉文化というキーワードからすると、自分にも関係があることを思い、「ボランティアと福祉文化」だとか、あるいは「青少年と福祉文化」だとかと、豊かに生きていくということになりますと、意外と自分にも関係があるなと、そこに関係づくりがあって参加しているんではないか。今まで他の分野で活動していた仲間が、ふとそういうフィールドに入って活動に参加するということは、その辺にキーワードがあるんではないかと。福祉文化というものをみんなで探究していきながら、関係づくりをする言葉であるのかなというような感じがしています。」
コーディネーター:
「それでは共同体ということで村山先生にいくつか質問が来ていますので、それについてお願いいたします。」
村山:
「共同体を作るということですけれども、ネットワークを使って新しい共同体を立ち上げるというのはこれすごく難しいことです、別にそれはネットワークを使わなくても同じで、全然知らない人を集めて新しい共同体を作ろうってこれなかなか難しいですよね。ですので、ネットワークだからどうのこうのっていう問題ではないと思います。そういう意味で、現実的には今ある共同体の上にネットワークをかぶせていくということが一番手っ取り早いわけで、特に学校の場合には、教室に入れることによって、まずとりあえず教室の中でネットワークという形でやっていくのが普通だと思います。それから先ほどの高橋先生のリテラシーの話もそうでしたが、共同体としてネットワークだからどうのこうのっていうことをあんまり僕は考えてなくて、共同体である以上、誰が入ってくるかわからないところもあって、学会なんかそうです、本当にわかってるのかどうか分かんない人まで入ってきたりするわけです(笑)。でもそういう人は結局丁重には扱われますけれど、仲間としては扱ってもらえないというか、あとで食事のお誘いが来たりとかそういうこともないですし、だべったりもしてもらえないという形で、変な話です仲間と見なされないという形になってきますよね。そういったことはネットワークの技術的な問題とかそういう問題ではなくて、人間の集団が持っている元々のシステムで動いていくんじゃないかなあと思っています。そこらへんはコンピューターで何とかしようとは私はやっぱり思ってないです。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。もう少しこれ発展させれば…と思いますが、ちょっと時間の関係がございます。宮崎大学の原先生、ご発言いただけますでしょうか。」
宮崎大学(原):
「宮崎の原です。3名の先生のお話を大変興味深く拝聴させていただきました。私なりに3名の先生方のお話の共通点を探させていただくとすれば、おそらくコミュニケーションの技術といいますか、方法といいますか、そのあたりが共通するのかなあと思いました。
例えば石川先生のお話であれば、コミュニケーションといっても人と人との場合に限らず、人とメディアのコミュニケーションであったり、人と物のコミュニケーションであったりするわけです。そういった人と人、メディア、ものを結ぶ技術、あるいは方法というものを考えていくことがこれからさらに重視されるようになるのではないかとお聞きしておりました。
村山先生のお話であれば、人とコンピュータやメディアの間のインターフェイスということがそれにあたるのではないかと思います。それから平田先生のお話に関していうと、最近よく異年齢の人たち、例えば子どもと高齢者の間の断絶がいわれますが、そういった間でのコミュニケーションが必要で、そのときにコミュニケーションの方法が必要なのではないかと思います。それは、結果として仲間作りの仕方につながるものだと思いますが、関係作りというお話もありましたけれども、人とハードウェアとの関係作り、そして、改めて人間同士の関係作りも考えていくことが必要なんではないかなあと、お話をお聞きしながら考えておりました。以上です。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。今私の方から指名する形で発言いただきましたけれども、他の大学の方から何かご発言、ご意見等ございますでしょうか。ありましたらよろしくお願いしたいと思います。
今、原さんからコメントがあったわけですけれども、今日はこういう形のメディアを使っての協議ですので、余計にメディアを使ってのネットワークということに話が進んだ部分はあったと思います。ネットワークには、平田さんのご発言の中にもあったわけですけれども、具体的に人と人との直接の関わりという部分もあって、メディアを媒体とした関わりの問題と直接的な関わりの問題とその辺のことについて、それぞれの方に簡単にご発言していただきたいと思います。」
村山:
「私は私の立場から言いたいことだけ言いますけど、いわゆる仮想体験とかバーチャル体験とか言われて一段低く見られることが結構多いんですが、例えばそのネットワーク上のコミュニケーションによって学習したとか、そこで実際に腹立って実際の日常生活の中で憤懣をぶちまけたとかっていう場合には、それが仮想体験だからどうだって問題は全然ないわけですよね。ある現象がネットワーク上で起こったからといってそれを仮想って呼ぶことに全然意味はなくて、その体験を通してそれがその人を変えたかどうかということが一番大事なわけで、実際に対面状況であるか、ネットワーク上であるかということはあまり気にしないようにはしています。」
平田:
「昨年、全国の学会大会でこんな事例が紹介されたときに、まさしく時代は時代だなと思いました。92歳の施設を利用されているおばあちゃんがインターネットをやりたいと施設の職員、施設長を動かして、そして現在ではその施設の中でインターネットの公開講座を持つようになったと。そこにいろんな企業人とか技術を持っている方々が参画して、それを支援しているという自己実現のための社会参加としてインターネットの可能性は特別寝たきりのお年寄りの施設にもあるんだということは、本当に自己実現は無限、可能性は広いんだなあという感じがいたしました。」
コーディネーター:
「ありがとうございます。石川さん今の問題についてご発言いただきたいと思うのですが。」
石川:
「当たり前のことなんですが、ネットワーク上での人々の振る舞い方って様々で、誠実な人もいれば、けんかっ早い人もいるし、まあいろんな人がいます。それは現実に、いわゆるネットワーク外での人と人との関わり合いと何ら変わるところはありませんし、またネットワークの外での振る舞い方とネットワークの中での振る舞い方と端から違うなと感じる人たちもたくさんいると。私自身も振り返ってみるとそうかもしれないし、わからないんですけれども。生身の人間関係とそれからバーチャルな関係って分けて、前者をより本来的なもので、バーチャルなものはそうじゃないんだ、偽りのものだっていうような感覚は、どうもやっぱりそれはちょっと違うだろうなあと。強いていえば、どちらもそれはリアルなものだし、それぞれの中にいろんなことが起こるし、いろんな可能性ももちろんあるし、いろんなことが起きます。それぞれやっぱりとてもリアルな社会だって感じをもっていますけれども。」
コーディネーター:
「ありがとうございました。あと時間が3分ほどになりました。あまり時間がありません。学習ネットワークということで非常に実りの多いご意見たくさん伺うことが出来たと思いますが、他の大学の方から他に何かご意見がございますでしょうか。いいですか。それでは、時間もせまってまいりましたので、本当はそれぞれの皆さん方からもご発言いただけることがきっとあったのではないかと思いますが、まとめの方に入らせていただきたいと思います。
このようなSCSをはじめ様々なメディアが発達することによって、私どもは、学習の機会も、学習の場も、そして学習仲間というんでしょうか、ともに学習する人々の範囲もものすごく広がってまいります。その中で学習が非常に多様化するとともに学習内容にも深まりも生まれてくるということが今日の試みでもわかったように思います。そういう意味ではこれから教育は一層拡大し、深化するものと思います。これまでの時代の教育というのは、学校中心であり、学校という場の中でしか学習できないという問題点を持っていました。学校の持っているプラスの面ももちろんあるけれども、さらに教育の可能性を拡大することは重要です。そういう意味ではメディアの発達は学習機会がものすごく拡大するわけです。その可能性をいろいろお話を承りながら私は非常に強く感じました。
もうひとつ付け加えさせていただきます。始め私の声が聞き取りにくくて申し訳なかったのですけれども、それぞれの大学からご発言いただきました音声は、大変クリアに聞こえました。まさに教室で実際の授業を聞くのと同じ音声で聞くことが出来たという感じです。私もテレビ会議システムを使ったことがあるのですけれども、一年もたたないうちにずいぶん発達したものだと非常に強く感じました。SCSというものの活用の可能性を今日の実験的な試みで確認できたように感じます。現実的には、様々な技術的な問題がまだあるようです。今日も、スタート直前に他の教室で使っているワイヤレスの音が突然入ってしまって困惑しましたが、そうした問題にどう対処するかとか、今後改善しなければならないことも多々あると思います。こういったこともやってみないとわからないことですから、このような経験を基にしてより改善が図れるようにしてまいりたいと思っております。それでは5時終了ということに予定しておりまして、ほぼその時間になりましたので以上で本日の『学習ネットワークと生涯学習2』を終わらせていただきたいと思います。それぞれ関係する機関の皆様、どうもありがとうございました。講師の皆さん方、どうもありがとうございました。(拍手)
最後に岡田センター長からご挨拶いただきます。」
センター長:
「長時間にわたりまして、いろいろ貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。本日は学習ネットワークということで、シンポジウムを開かせていただきましたが、3人の先生方にはそれぞれのお立場でご発言をいただき、私もいろいろなことをお聞きするうちに、目から鱗が落ちたような気がいたしました。私自身本当に、大変良い勉強をさせていただきました。それから、このSCSを使っての本学では初めての公開討論会ということでございましたが、ご参加いただいた7大学の音声は、明瞭に聞こえましたし、画面も拝見できました。大成功だったということで、意を強くした次第でございます。ありがとうございました。また直接討論に参加していただきました、大分大学の岡田先生、宮崎大学の原先生、筑波大学の野村先生、高橋さん、本当にありがとうございました。厚くお礼申し上げます。またこのシンポジウムを始めから終わりまでコーディネート並びに総合司会をして下さった角替先生には、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
またこのような機会がこれから先、もっと多数の大学間で、さらに発展したネットワークが構築できれば大変幸せだと感じまして、私の感想並びにご挨拶とさせていただきます。本日は、長時間にわたりまして、ありがとうございました。」
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