センター開設記念シンポジウム
「大学開放と生涯学習」
期日:平成9年2月21日(土) 午後1時〜5時
場所:静岡市黒金町 静岡音楽館AOI
基調講演:「生涯学習社会と大学の役割」 ▼JUMP
筑波大学教授 山本恒夫
提言1:「地域社会と生涯学習」 ▼JUMP
静岡県新大学推進顧問 庄田 武
提言2:「博物館と生涯学習」 ▼JUMP
佐野美術館副館長 渡辺妙子
提言3:「大学と生涯学習」 ▼JUMP
静岡大学生涯学習教育研究センター長 原 秀三郎
パネルディスカッション ▼JUMP
コーディネーター 静岡大学教育学部長 角替弘志
主催者あいさつ
静岡大学学長 佐藤博明
みなさんこんにちは。静岡大学の佐藤と申します。本日のシンポジウムを開会するにあたりましてごあいさつ申し上げます。本日はみなさん週末でなにかとご予定のところを本学主催の生涯学習シンポジウムにお集まりいただきまして、誠にありがとうございました。静岡大学では開かれた大学をめざし、これまでもさまざまなこころみと努力をしてまいったところですが、この度全国第15番目の生涯学習教育研究センターを発足させることができました。おかげをもちましてこの間、センター専任教官等のスタッフもそろい、本日ここに開設を記念するシンポジウムを開催する運びとなった次第でございます。大学開放と生涯学習というたいへん大きなテーマのもとに生涯学習社会と大学の役割についての筑波大学教授山本恒夫先生の基調講演をはじめ、前静岡県副知事庄田武先生、佐野美術館副館長渡辺妙子先生、本学生涯学習教育研究センター長原教授、本学教育学部長角替弘志教授の各氏による地域社会、博物館施設、本学からの生涯学習への提言の場を計画し各方面へご案内いたしましたところ、たいへん多くの方々からご参加の申し込みをいただきました。このように多くの県民のみなさんの参加を得て、このシンポジウムを開催できますことは主催者として喜びに絶えません。また同時にそれだけに生涯学習への関心の高さを改めて私どもは認識し、センター開設の重要性に思いをあらたにしているところでございます。今、大学・短期大学など高等教育機関は今日の生涯学習社会において高度で体系的かつ継続的な学習の場として重要な役割を果たすことが期待されております。私どもは日頃、大学における研究成果を還元し大学のもっている教育機能を社会に開放するためにさまざまな努力を重ねております。静大では具体的に申し上げますと、これまでも時代と社会の要請に基づく高齢化社会の問題であるとか、環境問題・いじめや、命の問題などをテーマにした公開講座や、学部ごとの公開講演会あるいは、サテライト講義など、地域と結びついた様々な大学開放事業をこの間進めてまいったところですが、この度生涯学習教育研究センターの開設を機に、公開講座のいっそうの充実と、大学開放の情報ネットワーク化あるいは、生涯学習の指導者養成などの地域社会とのより強い結び付きを、進めてまいりたいと考えております。
本日のシンポジウムも、そうした意味におきまして、地域文化のなかでの生涯学習の実情をふまえ、大学が地域社会に果たす役割や、生涯学習の拠点としての大学が行なうべき事柄など、大学の生涯学習教育研究センターに期待される皆様の、忌憚のないご意見を是非御聞かせ頂きたいと考えております。私どもは、それらのご意見をセンターの今後の運営、事業推進に生かしてまいる所存でございます。
本日の基調講演、バネリストをお引き受けいだいた講師の先生方に、ご多忙のなかお時間をおさき頂き誠にありがとうございました。またこのシンポジウムを、ご後援頂きました静岡県教育委員会・静岡市教育委員会・静岡県博物館協会・静岡県公民館連絡協議会・静岡県図書館協会の各関係事務局の方々に対して、心から感謝申し上げます。とりわけ、静岡県総合教育センターの方々には、特段のご支援を頂き本当にありがとうございました。また、本日の開設記念シンポジウムには、文部省生涯学習局から、清水生涯学習企画官のご出席をいただいております。ここにご紹介申し上げ、厚く御礼申し上げる次第でございます。ご参集の皆様には、最後までご静聴いだだきますようお願いいたしまして、開会のご挨拶にかえさせて頂きたいと思います。本日はありがとうございました。
来賓あいさつ
文部省生涯学習局生涯学習企画官 清水 明
ただ今ご紹介頂きました、文部省の生涯学習振興課生涯学習企画官の清水と申します。本日は静岡大学生涯学習教育研究センターの開設記念シンポジウム、本当におめでとうございます。本日のこのシンポジウムにお招き頂き、勉強させて頂く機会を与えて頂きましたことに、感謝申し上げます。
学長さんのご挨拶のなかにもありました通り、様々な社会の変化の中で、生涯にわたって学習を続けていこうといった人々のニーズが増加しております。静岡大学を初めとする国立大学から公立・私立の大学まで含めて、大学は生涯学習社会の中で、高度で体系的な学習の場として、社会に開かれた存在となっていくことが求められています。後程の山本先生の講演のなかでも、詳しいお話があるかと思いますが、国の生涯学習審議会でも、地域における学習機会の充実の中で、大学が一層大きな役割を果たすことを期待するとの提言がなされているところであります。
また、一方で、18才人口が急激に減少しており、さらに行政改革その他の状況の中で、国立大学としても、地域に貢献していくことが、強く求められているところであり、大学の側としても、開かれた高等教育機関を目指していくことが、たいへんに重要になって来ているのです。実際に、静岡大学を初めとする全国の各大学では、社会人の特別選抜の実施や、夜間大学院の開設、科目等履修生という社会人が大学の授業を受けられる制度の活用、さらに、公開講座の実施に当たり、色々と新しい形や内容を工夫することなど、生涯学習の取り組みは、進んできていると思います。
ただ、また一方で、長年にわたる慣行・意識といったものもあり、大学のなかでは、研究活動やストレートで入学する若い学生の、教育活動が本来の仕事で、生涯学習の取り組みはその次であるという考え方が多少残っているのではないでしょうか。また地域の人々にとっても、大学は敷居が高いというイメージがあり、一般の方々や地方の教育委員会の中に、大学を遠い存在と思っているといったこともあるのではないかと思います。大学を地域に開いていくために、生涯学習教育学習センターを中心とする大学関係者と地域の行政の方々との連携が、なお一層期待されているところです。
とくに、大学には、非常に質の高い人材を有していること、教育研究の成果が蓄積されていることといった特長がありますし、また一方行政の側は、身近な様々な施設を持っていること、住民のニーズをこと細かに把握したり、広報したりすることは、得意の分野ではないかと思います。大学と行政が手を結びお互いの特長を生かしていくことにより、それぞれが単独でやるよりもさらに良い生涯学習の取り組みを実施できるのではないかと思っております。
最後になりますが、生涯学習教育研究センターが、学外に向けては連携の窓口といたしまして、また大学の中に向けては、大学開放、地域に開かれた高等教育機関になっていくための推進役といたしまして、大きな役割を果たしていくことを期待をし、一層の努力をお願いしたいと思っております。
本日のシンポジウムの盛会と関係者の皆様方のご活躍を祈念いたしまして、私の挨拶とさせて頂きます。本日はおめでとうございます。
基調講演:「生涯学習社会と大学の役割」
筑波大学教授 山本恒夫
ただ今ご紹介頂いた山本でございます。この度は本当にセンターの開設おめでとうございます。
考えてみますと私は昭和五十年代半ばぐらいから、先ほどお話がありました教育学部長の角替先生にお声をかけて頂いて静岡に通うようになりました。いまでもそうですけれど、その当時は全国でも先進的な県だったと、思うんですが、生涯学習推進というのを地域学習の推進といっておりました。覚えていらっしゃる方もおられると思いますけど、一般行政部局と教育委員会が協力してやるということで始められました。その関係で、今年も静岡県内市町村をお伺いさせて頂く機会がありまして、今でも何かのおりに静岡では、その頃こういう話があったとお話させて頂いたりしております。今日は演題を「生涯学習社会と大学の役割」といただきまして、お手元には資料を用意しておきました。先程清水企画官のお話もございましたが、国の方の資料も用意しておいたほうがいいかなと思いまして、一応用意をさせて頂いております。話の組立としましては、最初生涯学習社会の話をさせて頂いて、その中で、社会に開かれた大学ということで、特に大学の第三の使命といわれる社会の奉仕のことを少し申し上げてみたいと思っております。最後に、こういう生涯学習教育研究センターが全国に作られるようになった経緯のところも、少し資料を用意しておきましたので、その辺にも触れて静岡大学のセンターにご期待申し上げるというようなことで、進めてまいりたいと思っております。時間も余りありませんので、早速入らせて頂きたいと思います。
まず、生涯学習社会という言葉ですけれど、元々は学習社会という言葉からスタートしていると思うのです。学習社会というのは、アメリカのロバート・ハッチンスが、ラーニングソサエティーといったことに始まります。
従来は食べるため生きるためというので、まず経済活動を追求してきた。しかしそれがなんとか達成できるようになった、生活水準がある程度保たれるようになったというので、目が自分の充実ということや生きがいということに向いてきて、精神的な価値を追求するようになった。賢く楽しく健康にと考えてみますと、賢くと生きるためには、何かやはり知識技術も必要だろうし、楽しくもそうですし、健康もそうですね。
三つのどの場合でも、学習をしないとなかなかうまく行かない場合がある。ただ黙っているだけで賢く楽しく健康に生きられるということではないということですね。そういうことから、目が学習に向くようになって、学習の機会もふえてきて、生涯にわたって学習しようということになってくるわけですね。ところが、それだけでは学習社会ではない。どういうことかといいますと、社会のあらゆる仕組みあらゆる組織、いろんなところの人たちが学習に価値をおくようになることが大事なんだというのです。こういう価値観の転換をはかった社会が、学習社会だというのです。そんな社会があるのかというと、それは理想だからない。しかし、いちばん近いのは、デンマークだといっています。
最初は、昭和56年の中央教育審議会の答申でも、学習社会というような言葉を使っていたのです。それがいつのまにか、生涯学習社会という言葉になりました。いつのまにかというわけではないのですが、正式にそういう言葉を使ったのは、臨時教育審議会が最初だったと思います。それ以来、わが国の場合には、学習社会というよりも生涯学習社会という言葉を使うようになりまして、それが一般的になってきたと思います。
今日お集まりの皆様は、行政関係の方、生涯学習に色々携わってくださっている方々とうかがっております。国とか都道府県とか市町村にかなり関わりがあると思いまして、資料を集めてみました。恐縮ですが資料の最初のところをご覧頂きたいと思います。生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」というのがあります.これは、平成4年に出ているのでありますが、この中で考え方が整理されています。
その最初の段落は整理してくださった部分ですけど、こんなふうにあります。平成3年4月の中教審の「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」の中で、過度の受験競争など学校の抱えている問題点を解決するためにも、生涯のいつでも自由に学習の機会を選択して学ぶことができ、その成果を評価するような生涯学習社会を築くというようなことで、生涯学習社会をこんなふうに考えていったらどうだろうとなっています。
その下が生涯学習審議会の答申です。そこにございますように、本審議会というのは生涯学習審議会ですが、今後人々が生涯いつでも自由に学習の機会が選択して学ぶことができ、その成果が社会において適切に評価される生涯学習社会を築いていくべきだというふうに整理してくださったわけでございます。地域社会で生涯学習社会を作っていこうとすると、仕掛け仕組みが必要になってまいります。この中に仕組みが三つは入っております。
まずひとつは、生涯学習審議会の答申で見ますと、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して、というところなんですね。自由に学習機会を選択することがうまくできる場合もありますけど、情報もないしどうしていいのかわからないということが、あったりしますとなかなかうまく行きませんね。情報提供など学習相談なども含めて、もし必要があればということですけれど、学習機会を選択していくことを援助する仕組みがひとつ必要になる。全国的に今整備しています。
それから2番目は、学ぶことができるということになりますと、学習というのはいろんなところで学びます。そうすると学習機会を提供していく仕組みが必要になってまいります。学校教育・社会教育でやってまいりました。これからも学校教育・社会教育を中心とした学習機会提供の仕組みといったものが必要であるわけです。その次のところなのですが、学習成果が社会に適切に評価されるということも、臨教審が盛んに言ったわけでございます。
これは残念ながら、日本の場合立ち遅れています。学歴はありますが、学歴が偏重されて、いろんな問題を起こしていることはご存じの通りでございます。それ以外のところの勉強を適切に評価してもらえるような仕組みがあるかといいますと、資格とか、技能審査検定とか在りますけど、まだまだ十分ではない。
国の方でも一生懸命考えてくれていまして、今生涯学習審議会で学習成果の活用とそれに絡んで、こういう評価認定のところも検討している最中でございます。評価というと学校教育の何十点ということを思い浮べがちですけど、まさに勉強したことをあなたはこれだけ勉強しましたというように認定する資料ですね。そういったものがほしいということになるかと思いますので、そういう仕組みをこれから作っていかなくてはならないでしょうし、またそれが活用されるようにしていかなくてはならないと思います。
まあ国によってですけれども、そういう仕組みを作る。気をつけないと、学歴社会の弊害みたいに、資格社会の弊害を生み出すようになっていくと困る訳で、あくまで希望があればそういうようなものを使って頂くというだけのことだと思うんですけども、まあ、その辺が立ち後れていますが、その3つの仕組みですね。今申し上げた3つの仕組みが揃ってきますと、生涯学習社会の教育・学習のシステムというのが出来上がってくるんだろうという事でございます。
そういう中で、大学の役割はどうなんだろうかということになるわけですが、もう先程、学長先生のお話にもありましたし、清水企画官のお話にもありました。それに尽きる訳でございますが、やはり我が国の場合には、私どものですね、国民全体の教育水準はすごく上がってますよ。これは大変なものだと思います。そうなりますと面白いもので、勉強というのはやればやるほど継続的になりますし、レベルも上がりますから多様にもなります。興味、関心も分かれてきますよね。系統的にも勉強したいというのも出てきたりします。そうなってくると、やはり高等学校とか、大学に対する期待っていうのは大きくなる訳ですね。そこにいる先生方というのは、これは貴重な財産ですから、その方々にも教えを請いたい、勉強したいとなっていく訳で、高等教育機関に対しての期待というのが非常に高まってきています。資料に生涯学習審議会答申「地域における生涯学習機会の充実方策について」(平成8年4月)がございます。社会に開かれた高等教育機関というので、ここにすべてが出てると思うんですが、少し斜めに見ていって頂ければと思いますけれども、1行目の所、高等教育機関は、高度で体系的かつ継続的な学習の場として、生涯学習社会において重要な役割を果たすことが期待されている。この答申にございますが、高等教育機関がそういう新しいニーズにこたえようとしたならばやはり社会人の受け入れを促進する必要があるんだろう。年齢輪切りで若い層だけを対象にするというのではなくて、広範な年齢層にまたがる社会人を積極的に学生として受け入れたらどうだろうというようなことでありまして、その次にありますように、まさに意欲と能力さえあれば、いつでも誰でも容易に高等教育を受けられるようにする必要がある、これは本当にその通りだと思います。 次にございますように、さまざまな高等教育の改革の提言もなされてきておりますし、その実績も上がっているということだと思いますが、しかし、社会人を受け入れることに積極的な大学等であっても関係者の努力にとどまり、教職員全体の意識が変化しているとまで言えないことが多いといっています。社会人の受け入れには、社会人の学習にふさわしい新たな教育課程の編成、履修形態の工夫をしなければならない。ここの所は非常に大事な所だろうと思います。大学の方で、カリキュラムというのは、授業一覧とかそういうふうになっているものを思い浮べて頂ければと思いますが、あれを2本立てにしないと無理だろうと思います。並行型と言っているんですけれども、2つ、つまりどういうのかと言いますと、1つは従来どおりですね、今までの大学と同じです。若い人を育てていくために準備の教育をするというので、準備教育というカリキュラムです。これは若い人でなくても、例えば転職をはかろうというような方々がいたとすれば、これはそういう所で準備教育を受けないとできませんから、そういう方々にはいいと思いますね。どっちかというと、系統的な学習をするのに適しているようなカリキュラムだと思います。
それに対してもう1つ必要なのは、社会人が入ってきて今みたいに転職しようとかあるいは教養の為に新しいことをやろうというのではなくて、今自分が仕事をしている中でどうしてもリフレッシュしたいとかですね、そういうような事で来る場合には、今抱えている問題を解決するということで大学に戻ってくるということになりますので、この場合には現職教育型の仕組み、カリキュラム、そういうのを揃えないとうまくいかないです。ですから2つを並べていかないとこれからの社会人を受け入れるという場合には、なかなか社会人のニーズにこたえられないではないか。まあ、ちょっと手前味噌で申し訳ありませんけども、筑波大学では夜間大学院を作りましたが、現職教育型のカリキュラムです。
それから、社会人学生の受け入れ以外の方法による地域社会への貢献も大事で、教育や研究を通じて行なわれる社会貢献、とりわけ地域社会への貢献は、高等教育機関に期待されている役割であるというふうに書いてありますよね。その下をご覧頂ければわかるように、今後はさらに広く地域一般の住民に生涯学習の場を提供することを通じて、地域社会に貢献するという役割が期待される。教育や研究を通じてという事で、教育を通じての社会貢献、研究を通じての社会貢献を社会の奉仕という言葉の代わりに入れてある、ということになります。
国によっては、ご存じの方も多いと思いますけれども、アメリカとかイギリスなどでしたら、大学の使命といえば、教育、研究、社会への奉仕です。19世紀からそうなっているのが当たり前だという国もあるわけですけれども。日本の場合には仕組み上からしますと、まだそこまでいってはいけないというような事でこうなっていますが、精神はそういう事でございますので、そういうつもりで見て頂くと分かりやすいのではないかと思います。下に目次というのをわざわざあげてありますが、そこの初めの、T.社会に開かれた高等教育機関で、社会人の受け入れ促進っていうのがございますね。教育内容の多様化と履修形態の弾力化は先程申し上げました。2番目に公開講座の拡充となっています。この本来公開講座というのはその下の、地域社会への貢献に入れるべきなんです。それを敢えてここに入れたというのは教育を通しての社会への貢献で、これも大学の教育の一貫であるということをはっきりさせたい、公開講座は余計なもの、邪魔なものというのではなくて、大学の教育機能の一部として扱おうという意図の表れなんですよ。
それから、その次の講座内容、方法の改善という所では、先程申し上げたような準備教育と現職教育というようなことですけれども、職業技術の習得などの新たなニーズに即応することとかですね、より専門的な内容を備えることとか、これはまあ当たり前だと思いますが、その次の新しいメディア等の活用によって広域の受講を可能にすること、この辺の所を少し申し上げてみたいと思います。
最近は新聞等も賑わしておりますけれども、いろいろマルチメディアを使って、大学のキャンパスを結ぶ、遠隔教育をするというような事もございますね。これが、大学の中だけじゃなくて地域に広がってきまして、昨年の10月から実験を行いました。私どもの研究室の出で、今淑徳短期大学にいる浅井経子さんという教授が短期大学と福島県の公民館を結んで、大学の講義をそのまま出したんですよ。それお金かかるんじゃないかと思われそうですが、今はいろいろ新しくなりまして、テレビ会議システムでも安くできるのが開発されてきまして、双方向でやりとりが出来るんですよ。簡単です。今言った淑徳短期大学と7つの公民館をそれで結びまして、生涯学習論の講義、学生さんに講義してるものをそのまま流しまして、地域の公民館の専門職の方とか地域の学習者の方とかから質問を受けたり、感想を聞いたり、やりとりをしたんですね。淑徳短期大学では4月から、静岡などと結んで福祉関係の遠隔教育を行うようです。もうそこまで来ているんですね。そうなりますと、大学の中で、今まで閉じられた大学の中で行なわれている講義というのはそのまま一遍に公開されてしまう訳ですね。どこに居ても受講できる。自分の住んでいる地域の公民館へいって、大学の講義が聞けたら、これは面白いですよね。必要があれば、科目等履修生という制度がありまして、単位になります。そういう単位認定までするようにすれば、そこにいて大学の単位が取れる。大学の単位取ってどうなるのとおっしゃるかもしれませんが、学位授与機構というのがございまして、これ大学行かなくてもですね、まあ今のところ高専と短大を出ていないと駄目なんですけれども、その後62単位をとると、学士になれます。そういうふうにも使えるようになってくる訳ですね。まあ、今急にということではありませんけれども、この新しくできたセンターなどの公開講座がですね、単位を認定してくれるようになれば、それを貯めておいて、先程のような事で学位授与機構へ出せば、学士になれるという事だって可能なんです。まあ、そういういろいろな内容、方法の改善というものを通しながら、やはりこれからは社会人への奉仕ということを大学自体が考えていかなければならない所まで来たんだろうと思いますし、また国民の期待も大きい、地域住民の方々の期待も大きいという事になるかと思います。
そういう中で、やはりどこかそういう事をやっていく仕組みが欲しいですね。それについては、この生涯学習教育研究センターがいちばんいいんじゃないかと思いますが、資料に生涯学習のセンターの整備というので書いてありますので、ちょっとご覧頂きたいのですが、学内の組織体制を整備する、これは大学の方の事になりますけれども、その4行目ですね。学内全体としても生涯学習を総合的に推進する体制の整備が必要であり、現在国公私立を問わず、幾つかの大学等において全学的な生涯学習推進のためのセンター整備が進められている。生涯学習教育研究センターなどにもいろいろな事をやって頂いたらどうだろうというわけです。そもそもこれが作られることになったのは、平成2年1月の中央教育審議会答申「生涯学習の基盤整備について」の提言があったからでございまして、その中で大学、短大等の生涯学習センターについてというような部分がございます。そこを見て頂きますと、まあもう繰り返しになるようですので、斜めに目を通して頂ければと思います。
そこの第2段落でございます。今後、大学、短期大学においては生涯学習機関としての役割をも視野に入れて、履修形態やカリキュラムの多様化………。また、放送大学の全国化との関連で、放送大学との連携も必要である。以上のような取り組みを進めるとともに、体系的・継続的な講座の実施や大学・短大等における学習機会に関する情報の提供とか相談ですね。やはり大学に関する情報の提供とか相談っていうのは、なかなかうまくいかないんですね。どうしても従来、大学というのは閉じられている、先程もお話がありましたが、どうしても閉じられているという意識もあります。また実際、閉じられてきたんだと思いますが、ですからこういう情報の提供や相談というのは非常に大事になります。社会人を対象とした取組みを積極的に行う体制として、その次にございますが、あくまで大学・短大の自主的な判断でございますけれども、生涯学習教育研究センターを開設するということが期待される。これを受けてくださったのが先程の、生涯学習教育研究センターというものでございます。その大学・短大につくられる生涯学習教育研究センターは、都道府県に設ける生涯学習推進センターです。静岡県の場合には、その総合教育センターの中に、こういうものが含まれておりますけれども、全国いろんな所に生涯学習推進センターと協力して、県、あるいはさらに市町村、地域とも協力して、そこにございますような講座を開設したり、あるいはプログラム開発研究を行ったらどうだろうかというわけです。この場合にも、大学自治の問題もありますから、自主性を尊重して、こういうものを進めていったらどうだろうというような提言があったわけでございます。そのようなことで国立大学でもこういうセンターをたくさん作ってくださるようになりました。やはり我々は地域にいますと大学というのはなかなか入りにくいですよね。さきほどの遠隔講座で公民館へ言って受講できる場合はよいとしまして、ふつうはなかなか大学には入りにくいようなところがございます。そういうところにこういうセンターができてきますとそこから入れますから、またそのセンターの先生方や事務の方々もそういう意識で動いてくださいますから、身近なものになってくるというところがあって、非常に大きな意味を持つんではないかと思います。静岡大学のこのセンターにも私どもは、大いに期待致しているわけでございます。今日は開設記念ということで、こういう機会をいただきまして、大変ありがたいと思って、喜んでこちらに参加させていただきました。また後で、パネルもあるようでございますので一旦、私の話はこの辺で切らせていただきたいと思います。どうもご静聴ありごとうございました。
提言1:「地域社会と生涯学習」
静岡県新大学推進顧問 庄田 武
この資料集の8ページに一応レジュメを作ってまいったんですが、非常に広範囲に渡ってずらっと並べてありますので、かなり素通りしていかなければならないような形になると思いますけれども、ご参照いただければと思います。ご案内の通り、日本の教育は、明治5年学制発布以来、近代国家建設という国家目的に添って進められてまいったわけですが、明治時代は当然諸外国に追いつけ追い越せであり、戦争中は特に戦争を遂行するということで、国家主義的な教育が協力に進められたわけです。また戦後は戦後で、民主化されたとは言いながら実際には経済復興という名のもとに、国家が画一的な教育を押し付けるという言葉は悪いですけれども、教育の水準を高めようということで、義務教育をかなり拡充し、また新制高校の拡充なんかも大幅に進めてきたわけでございます。このようにずっと日本は国家主義的というか、国家の国策遂行という大きな目標がありましたので、教育もそれに添って進めて来たようなわけで。我々なんかはその時代に育ったわけですから、ある意味ではごく当然という形でこうした教育を受け入れて参りました。しかしこれが高度成長期になりますと、自分たちの周囲も非常に豊かになってきた、個性についても色々みんなが関心を向けるようになってきた、ということで画一的な教育はおかしいと、今までの教育に対するいろんな反発やあるいは学校教育の制度疲労なども加わって、現在様々な教育課題がここで発生してきているんじゃないかと思うわけであります。そういう時にたまたま、1980年代、生涯学習という理念がとなえられまして、日本でもこれがこれからの教育の在り方だということで、現在教育システムとしても大きく発展させるようになってきております。文部省をはじめ各都道府県各大学の先生方もこれに一生懸命取り組んで下さっているわけですけれども、この生涯学習というのは、基本的に一番なにが重要かと言うと色々問題があると思うんですけど、私は、従来国のため、あるいは経済のためというようなことでどちらかというと個人あるいは自分のためと言う視点よりも、国家のためという視点の多かった日本の教育が、ここで学ぶものの自発性・自主性を尊重する教育への取組みが始まった、ということだと思うのです。当然、自分から勉強するということについては、大きな問題もあるわけで、これがこれからの生涯学習社会を構築していく上に、乗り越えなければならない壁ではあると思いますけれども、ともあれ生涯学習と言うものは、個人を主体とした、自分の内的・知的欲求から行動を起こすという、日本の教育で初めて出てきたような理念であるということが素晴らしいと思うわけです。そういう中にあって、従来の教育の在り方について反省がなされあるいは改革の必要性が叫ばれているわけですけれど、そう言われてみますと、日本の教育というと実際問題としてほとんど学校教育中心でありまして、学校外の教育というものは、特に無意図的な教育も含めまして、非常に軽く見られてきたという印象を持つわけです。ところがですね実際は、この人間の成長過程における躾とか規範意識とか、あるいは人と人とのエチケットとか、人間生活上の知恵のようなものは、随分家庭や地域から影響を受けているわけです。したがいましてこれは、今こういう時代になってまいりますと、いろんな人達が地域の教育力が低下した、家庭の教育力がダメになったから日本の教育がダメになったと言いますけど、これはよくよく考えてみますと、従来教育上の観点から日本の国はあんまり地域ですとか家庭に関心を向けて来なかったんじゃないかと思うのです。こんな事をいいますと、私も行政の一端を担っていたものですから、天に向かって唾を吐くような言い方になりますけれども、それこそ都合が悪くなると、地域が悪い、家庭が悪いというような話になってしまいます。地域とか家庭とかというのは、具体の人格がないからいいようなものですが、具体的な人格があったら怒ると思いますね。私は、今まで読んだ本や論集の中で、教育学的観点から日本の社会とか家庭というものを褒めた論調にあまりお目にかからなかったんですけど、数年前、ある教育論集の中で、ある外国の学者が日本の教育の素晴らしい所、特に小中学校の素晴らしいところは、学校教育のカリキュラムと違う、学校外の「隠れたカリキュラム」(ヒッデンカリキュラム)の良さによるところが大きいといっているのをみました。これによりますと地域において、人と挨拶をする、人に親切にする、あるいは人に声を掛けられたら返事をするとか、言ってはいけないこととかやってはいけないとか地域で教わっている、家庭で教わっている、だから学校にいってベルが鳴ったら黙って教室に入るものだとして教室に入っていく、それから教室で先生の言った事はきちんと聞く、といったようにこどもの生育上のプログラムが非常に整っている、この隠れたカリキュラムが日本の教育を支えているんだという論調を読んで、こうした見方に、私は目から鱗が落ちる思いをしました。たしかに地域にはこうした働きがあり、最近地域社会というのが非常に重要視されるようになったんですけど、今日、自分たちの実のまわりの地域社会というものをみますと、体験的には逆に人間的なつながりのある地域社会というのは存在するんだろうかという疑念を感じるのです。それは、一言でいえば、産業社会が発展して、日本は高度工業社会さらに情報化社会に入るに至って、従来の農村共同体的な共同体意識がすっかり壊れてしまったということによる変化だと思うのです。日本はそれこそ明治以来、この近代化・工業化を目指して、国が一生懸命力を注いで参りました。その一つとして学校の教育もあったわけですけど、地域についても、本来ならば近代化の過程で市民革命、産業革命を経て、工業化してまいりますと、封建的な色彩のある農村共同体的な共同体観念というのはヨーロッパの先進国の例ですとほとんど無くなってしまうんですね。それで市民社会に生きる個人が主体性を持って、人間として自分たち仲間を作り、集団を作り、組織を作っていくということになるんですけど、日本の場合は、日本人の公序良俗に反しない形で古い社会の体制をそのまま持っていきたい、ということになったわけです。これは農業が非常に産業の大きなシェアをもっているということもありますけど、とにかく明治時代は和魂洋才ということで、技術はヨーロッパから入れる、しかし物の考え方はずーっと江戸時代以来の日本の伝統の価値観を持つという形できたものですから、それが戦後もずっと生きていたわけですね。ところが物凄い経済高度成長の中で、豊かな時代になり、さらに情報化が進んで参りますと、さすがのこの日本の共同体も農村共同体的な観念というものはもうすっかりなくなってしまいます。経済至上主義的な生き方の中では、地域よりも自分の会社、あるいは自分の団体・組織、そういうような考え方が一般的で、地域に対する帰属意識というのはすっかり影を潜めてしまいました。地域と何か関係を持つとすれば、利害関係あるときのみ、それについて関心を持つということで、できれば隣近所ともあまり付き合いたくないというような風潮がずっと出てきたわけです。これはある意味では、産業社会の発展と共に避けられないことであって、今になって昔の時代は良かった、昔の近所の付き合いは素晴らしかったとか言っても、農村共同体的な人間関係、私はこれを日本型の地域共同体と勝手に呼ぶんですけど、そういったものが実際には解体してしまっていて、現在新しい情報化社会に相応しい人間関係を作っていかないと地域社会というのは元へ戻らないと思うわけです。そうしたことを念頭に置きながら、地域社会というのを新しく見直さなければならないと思うのです。地域が大事だという考えはここのところ、バブルの崩壊以後多くの人達の間にも非常に強く出てきたように思います。2年前の、あの阪神・淡路大震災の際、神戸の人達が隣近所の人をお互いに助け合って難をしのいだ場面を目の当たりにして、地域のつながりの重要性を強く感じたと思います。静岡県の場合も予想される東海大地震を前にして、やはり地域の人達がお互い同士手を結ばなくてはダメだという気運もすこしづつ生まれてきたように思います。防犯の問題も兼ねて、防災ということを考える上で、地域社会というものが非常に重要だということが感じられます。それから、環境問題や政治課題が非常にたくさんありますね。これらも例えば、迷惑施設を地域に造る、大きなマンションができるというようなとき、「ああこれができたらたいへんだ」と地域の人達が協力して解決にあたらなければならない事態も間々あります。公害問題なども、地域の人達がバラバラでは対応できないようなことがこれからはいっぱい出てくるだろう、となると地域はやっぱり皆で支え合っていかなければならないということになりましょう。ときあたかも、今までの経済優先の生き方に対して、疑問を持つ人間がたくさん出てきました。会社人間で、会社のためにボロボロになるまで働いて、その挙げ句、景気が悪くなったらリストラだとか、あるいはなんか幹部が悪いことをしてと、とかげの尻尾切りのように部下が責任をとらされるというような状況を見ていますと、人間の本当の生き方とは何だろうか、本当の豊かな人間の生活とは何だろうかと自分の生活の基盤に目を向けるような格好になりまして、地域社会というものが、重要視されるようになってくる気がいたします。青少年の健全育成も、学校だけの問題じゃない、地域を住み良い場所にするためには、子供達も素直に育ってもらいたい、環境浄化の問題も含めましてそうした地域社会をもういっぺん再構築しなければならないという考え方が、昔の封建的な考え方と違う形で新しく生まれつつあります。それらは、週休2日制とか学校週5日制が進展して、多少のゆとりが出てくるとか、あるいは祭りが復活したり地域のイベントがみんなに見直しをされるようになったり、ボランティア活動が非常に盛んになるとか、地域の人達が一緒になって防災訓練をやるような仕組みになってきたということなど、あるいは学習機会が多様化し、多くなってきたということから、地域の人達がお互い知り合うような契機がここで幾つか出てきたように思います。ですから人と人が話し合うようになれば、そして仲良くなれば、そこにいろんな情報が入ってくるし、さらに学習の必要性や学習することの楽しさということが生まれてくるんじゃないかとを思うわけです。そこで、地域社会と生涯学習の関わりというのが私に与えられたテーマなんですけど、この地域社会というものがさきほど申し上げましたように、人間の成長に非常に大きな意味を持っていると同時に、人間のこの成長がその地域へ大きな影響を及ぼすという相互作用が、地域と生涯学習の間に成り立つんじゃないかと思うわけです。これからの時代、本当に人間が人間らしく生きるためには、健全な地域社会が必要であり、その健全な地域社会をつくるためには、みんながこの新しい時代をどのように生きたらよいかということを考えなくてはならないと思うのです。そういう中で生涯学習という個々の人達の学習が、地域を新しく発展させることになるんじゃないか、生涯学習が地域の発展の一つのキーになるんじゃないかと思うわけです。生涯学習は、地域社会のためにやるんだというようなことはもうとう言うつもりではありませんし、県とか市町村もそうした目的でもって生涯学習を考えているわけではないでしょうが、学習をすすめる上で、生活の基盤である地域の重要性は十分考えなければならないと思います。
そこで、行政は地域と生涯学習の相互に及ぼす効果もいろいろ考えながら、住民の生涯学習に、少しでもお役に立てたらということで、いろいろな取組みをしているわけです。一言でいえば、自発的学習の支援・条件整備です。普及啓発と情報提供など…以下(レジュメに)挙げてありますけど、学びたいけどどうしていいかわからないという人が実際にたくさんいるわけです。どこへ行って、何を学べばいいか、どういう手続きをしたらいいかというようなことに応えることです。本県では、その情報を提供するために総合教育センター(掛川にありますけど)にマナビットという母体のコンピューターを置きまして、学習情報を全部それに集約いたしまして、県下87カ所・52市町村の行政センターとか主だった組織にそれぞれこの端末のコンピューターを置き、そこで誰でも探索できるようにしてあります。しかし実際にはその前の段階でそこにかけつけるまで、それを知るまでになんとかしなければならないというのが実態ですから、相談体制を整備していかなければならないと思うわけです。多様な学習機会、たとえば各種公開講座やら、葵大学とか女性生涯大学、県民カレッジ等、県で主催しているものもたくさんありますし、民間の学習機会も随分県が仲介したりしております。人と物との仲介を果たすためのネットワークづくりも非常に重要ですし、人材育成とサービス、先程山本先生からもお話がありました、評価の問題もごくわずかですけれども県としてもとりくんでおります。試みにいろいろな場で勉強した方々を、県の様々な委員会の委員になっていただいて知恵を拝借するとか、あるいは読み語りの講習を受けていただいた方には、ライセンスを与え、その方々に図書館等で読み語りのボランティアをやっていただいたりしております。学んだことが何等かの形で個人的にもあるいは公にも生かすことができないだろうかということを考えているわけです。そうした行政の取組みをそこに挙げておきました。これから先向かっていくだろうというのは、そこに五つばかり挙げたことですが、実はこれは大きな課題でありまして、これから我々が検討していかなければいけない事だろうと思います。時間がありませんので、パネルディスカッションの折りにでも機会があれば補足させていただきたいと思います。マルチメディアなど特に情報化というのは、生涯学習を進めていく上でたいへんに効果のあるものですけれど、逆にまた、うっかりすると個別化・個人化してしまいまして、自分が勉強できればいいということで、コンピューターの発達が人との連携を妨げるような面もでてくる恐れもあります。そうした面をどのように乗り越えていったら良いかといったことから、ずっと大きな問題をそこに幾つか挙げてあります。私はこうした今までの取組みを通じ、あるいは先生方のお話をうかがいながら、今行政の方でどうしても取り組まなければならないのは、各教育機関、特に学校教育との連関・連携ですね、これを進めていかなければならないだろうということを痛感しております。特に学習意欲の芽を育てる小中学校において生涯学習の意義というものをしっかり掴ませた教育をしないと、将来学問をしていかなくなる恐れがあります。生涯学習についてのいろんな調査によりますと、生涯学習に参加する、あるいは関心を持っている方達は、学習期間の長かった人・高学歴の人、あるいはいろんな機会に多くの勉強をした人ほど学習意欲が高いということがどの調査にも出てきております。従いまして、学習を早くから放棄しますと、生涯、勉強しない非学習社会ができてしまう恐れがあるものですから、そのへんやはり学校教育とかなり綿密な連携をとっていかなければならないだろうと思います。大学程度の高度の学習者の意欲を満たしていただくには、大学との関係が非常に重要になってきますが、大学は最近、生涯学習に非常に理解を示して下さり、一生懸命やってくださっているので、大学との連携にさらに力を注いでいかなくてはならないと思います。もう一つは相談体制ですが、これは行政が相当力を入れていかなければいけないと思います。たとえばボランティアなんかで誰か手伝ってくれる人が欲しいという病院や団体があり、一方で、私はやってもいいという人はいるんだけれども、それを結び付けるネットワークがないんですね。手軽にどこかへ相談すればすぐにそういった連携ができるような仕組みをつくらないと、県民・市民の立場から生涯学習、あるいは自分たちの生活が実際に役に立っていかない、自分たちが本当に納得できるような生活になっていかないというようなことになってしまいます。ネットワークづくりは、金もかかりますけれども、やっぱり行政が今後取り組んでいかなければならない重要なことだろうと強く思います。少々長くなって失礼しました。ありがとうございました。
提言2:「博物館と生涯学習」
佐野美術館 副館長 渡辺妙子
ただ今、ご紹介頂きました渡辺でございます。私は博物館の立場から提言させて頂きます。昭和26年、博物館法が制定されまして、その後約50年、博物館はひたすら生涯教育、近年いうところの生涯学習に携わってきたといっても過言ではないと思います。私などが学芸員となりました昭和41年、新設されました三島の佐野美術館に赴任した頃には、静岡県民のほとんどは学芸員という名称すら知らなかったと思います。で、博物館というのは言うなれば、文部省の中では日陰者でございまして、世の中には博物館行きという言葉が生きておりました。(笑)「あ、あれは博物館行き」というと、もうあれで墓場行きというのと同じような言葉に扱われておりましたから、その博物館行きの中でずーっと仕事をしておりました。その後、高度成長期になりました時に、突如として博物館が世の中に躍り出て参りました。県立博物館、県立美術館などが雨後の竹の子のように、各県に出来ました。更に市の規模にもほとんど出来まして、いまは町が一生懸命かかっています。年間、凄い勢いで増えております。ですから新聞を見ますと、毎日どこかの新聞には学芸員という言葉が出ています。学芸員が今非常に脚光を浴びております。若い学芸員がテレビにもよく出る現状でございます。大学に行きますと博物館講座花盛りです。学生が来過ぎて困るというところでございます。どうしてこういう形になったのか、当事者も非常に面食らっているというのが真相なんです。日本人は、どっちかといいますと、もともと博物館という「もの」に非常に関心のある国民性だったと思います。それが明治以降、先程、庄田先生がおっしゃっていた様に、学校教育に力を入れ、小学校から大学まで非常に高度の学校教育が行なわれておりました。その教育の内容を見ますと、ほとんど机の上で文字による、文字教育です。文字教育で概念をどんどんどんどん植え付けられています。すると実際にものに対しての認識というものはこっちに置いて、頭だけがどんどんどんどん大きくなって参りました。また、先生の話をひたすら聞く、聞き続けていく、受け身ですね。それが受け身の日本人を今、作ってきたのではないかと私は思います。博物館は自分で見なくてはなりません。見ることです。見るというのは個人の目で見なければならない。それは、能動的な態度でないと、見て自分で納得できません。私は聞くという事と見るという事、それも見るだけでなく、見てそれを言葉に置き換えなければ自分のものにならないと考えます。見て、自分の言葉に置き換える、言葉に置き換えるためには知識が必要です。今までずっと植えつけられた学校教育の知識と、それから物を見て自分で感じ、言葉を見つけて自分でそれを納得する行為、その見ると聞く両方がバランスとれて、初めて人間として充足感が得られると思うんですね。従来、博物館は無用のものとして追いやられておりました。それは一般の家庭・社会が恐らくそれが博物館の役目を果たしていたと思うんですね。自然の材質をよく見て、その扱い方を伝え教えるという。現代の日本人がこういう素晴らしい高度成長の経済社会を作ったというのは、日本人が物作りがうまかった…うまいからなんですね。物の質というものを非常によく判断できる潜在的な能力があるから、それに大学までの学校教育が知識を与える事によって、バランスがとれてきた。でも今、家族や地域社会が崩壊してまいりまして、ものの見方・扱い方を知っている人達から学ぶという環境ががどんどん世の中からなくなっています。そうしますと、世の中にアンバランスの風潮がはびこるんではないかなと思います。ちょっと最初にお話させて頂きました、卑近な例で恐縮なんですけれども、言葉だけ先行してきました時の一つの例をお話しします。私は日本刀に深い関心があるものですから、日本刀から例をとらせて頂きますが、日本刀の本を開きますと、「日本刀は折れず、曲がらず、よく切れる」と書いてあります。これは日本人がほとんど信じています。で、アメリカ人も信じています。私、ドイツ人もイギリス人も日本刀の好きな人をよく知ってますが、彼等も信じてます。でも、これは嘘なんですね。言葉だけ出来てるんですね。日本刀は折れて、曲がって、よく切れないんです(笑)。で、この答えは後でちょっとお話したいと思いますので、しばらく宿題にしておきますけれども、言葉と実際に物に即して考えるという事とはいかにかけはなれているかという事を、ちょっとお考え頂きたいと思うんです。
ここで、お手許のレジュメに従ってご説明させて頂きたいと思います。その一番に書きました、急増する博物館と減少する入館者数ですが、日本博物館協会というのがございまして、そこの調査によりますと、平成元年は全国に2722館ありました。これは博物館協会が博物館法に照らして博物館として認める内容を持っている館ということです。社会教育白書などを見ますと、大体この倍ぐらいの館が数えられていますが。ですから内容が博物館法に則った館ということになりますと、そのぐらい平成元年にあったんですね。これが平成7年、3381館に増えています。7年間に659館、年間に約100館増えているということです。そして入館者数。これは非常に入館者の数を捉えるのは難しいですけれど個々の館から報告制になっておりまして、報告した館の数によりますが、平成元年1452館の報告によりますと、入館者数が1億3900万あったというんですね。平成7年に1999館ですから、館の数が同じではないですから比較できないですけれども1億7000万、平成5年の2年前は2億2000万ぐらいが入っているんです。これは恐らく報告制ですから、これの5割増くらいが考えられるんじゃないかと思います、全国的に。博物館の入館者数といいますものは非常に大きな数で、この生涯教育においての役割の大きさを窺うことができますが、時間の都合であんまり細かい事はやめますけれども、平成5年をピークにして減っております。大体1割ぐらい減っています。ここで静岡県内のことを申しますと平成元年83館ありました。それが平成7年、静岡県の博物館協会で調べた所によりますと、96館あります。平成6年、入館者数は日本博物館協会の調べた数字によりますと、2100万人となっております。静岡の県民370万でしょうか。そうすると、延べ人数ですから、1人年間に何回か行っているということ、リピーターも考えられます。無論、観光客も考えられますけれども、静岡県民は、全国平均でいくと博物館に行っている率がかなり高いということがいえると思います。
それから2番目に入りますが、博物館設立のコンセプトです。これは話していると切りがないので簡単にしますけれども、県内には国立博物館は1つもありませんで、公立博物館が45館、私立博物館が48館、それから大学博物館が3館、この大学は全部東海大です。静岡大学にはないということなんですが、これから大学博物館の必要性が非常に出てくると思います。諸外国には大学にそれぞれいい美術館・博物館がありますし、大学の中で‘もの’とそれから理論というもの、知識と感性というもの、そういうものを両方、相俟って教育ができるようになれば、非常に望ましいのではないかと思います。それで県内でいろいろな博物館が設立されますが、どうしても博物館の場合重要な資料を持ちますと、資料を保存したい、それが目的になってきます。それらを専門家のためだけに保存し、保管しておこうという、資料館、保存館的な意識が非常に強くなってくる訳ですね。で、そういうものをどうやって公開していくか、これが大きな課題であります。今、コンピューターとかインターネットなどでそれを公開していこうという動きがあります。東京大学等でも博物館学の研究会が出来まして、資料を全部コンピューターに収録した映像の博物館を作ろうと言っています。私はこれにはちょっと問題もあると思うんですが。博物館というのはやっぱり実物のものを対象にしていない限り、博物館としての本質が非常に危うくなる。だからコンピューターを大いに使ってインターネットも大いに使っていいんだろうけども、それは情報交換であってその本物の質を学ぶことにはなり得ないと。でやっぱり実物を根底に置くことを基本に考えるべきだというふうに思います。それで、展示資料、研究資料、そういう物へのコンセプトの問題なんですね、また一方博物館設立の時に、現在はどうしても一般社会人に対して展示資料という物を中心にものを考えすぎている嫌いもあるんですけれども、展示資料と研究資料という2段階に分け、そして研究資料も公開できるそういうシステムが今後作られていくということが、結論を先に言うようなんですけれども、そういうふうなコンセプトが出来ていくことが望ましいと思います。
それから飛ばしまして3番にいきますけれども、利用者の件ですが、先程ちょっとお話しましたように、利用者が減っている。それはなぜかといいますと、これも結論を申し上げますと、今までですね、日本人というのは物に対して非常に興味が強いですから企画展を盛んに致しました。今もしてますけれども。全国的に企画展がおびただしく開催され、日本中が展覧会っていうと企画展以外ない。今の学生は企画展をしない限り、博物館へ行かない。企画展以外は美術館も博物館も存在しないという認識しかないんです。もう全国どこも。その企画展という一つの展覧会の手法というのは、アメリカから入ってきた方法なんですが、日本中はもう全部企画展で今流されています。で、最近ですね、入場者が減ってきたというのは、市民のレベルが向上して、企画をしてマスコミが踊らせても、もう踊らなくなってきている、そういう意味では非常に良識がアップされていると私は判断しております。博物館に対しての市民の良識が高まってきて、いい方向にあるのだというふうに思います。
最後4番ですけれども、博物館と生涯教育という、まあトータル的な結論になりますが、まず研究者・専門家の中においてですけれども、博物館と大学というものは、比較的交流が疎であったという感じが致します。今、私がある研究会を主催していますが、それは大学の専門の先生と博物館の専門の先生と一緒に研究をしていこう。そして研究する場合には、ものに即しますから博物館でなければ出来ないんですね。博物館において実際にものを見ながら、そこで論理を展開して、そしてその後実験とか、組立は大学の研究室でやるという、こういう両方の交流というものがこれから非常に大切になってくるんではないかと思います。そこで、大学の先生にお願い申し上げたいのは、大学開放をしましたから授業に市民もいらっしゃいということは大いに結構だと思うんですけども、大学の先生も社会に出て、博物館を出てそうして一緒に研究出来るという、やっぱりフィールドワークというか、そういうことも是非お願いしたいと思います。ちょうど決められた時間が参りましたので、一応これで閉じさせて頂きます。失礼します。
提言3:「大学と生涯学習」
静岡大学生涯学習教育研究センター長 原 秀三郎
最初に一言、謝辞を申し上げたいと思います。本日私どもんおセンター開設記念シンポジウムを開催致しました所、私どもの予想を上回る関係各方面および県民の皆様に御参集頂きまして、本当にありがとうございました。主催者の一人として心から厚く御礼申し上げます。
今日の私のお話は、「大学と生涯学習」というテーマを設定致しましたが、主としてセンター設置の経緯や狙い、或いはこの一年どういう事を考えてやってきたのかというような事をお話申し上げ、後程のパネルディスカッションで、いろいろな先生方のご意見を頂戴し、またフロアーからもご意見を頂戴して、今後の運営に資していきたいと、このように考えております。
私はレジュメの初めの所で「生涯労働、生涯学習」という表現を使いましたが、それというのは、日本は明治維新以来、120年余り、近代社会として成熟を遂げて参りました。とりわけ敗戦以降の高度成長の中で、我々の予想もしなかった高齢化社会という事態が出現した訳であります。こうなって参りますと、実は私もこの4月からはいよいよ大学を首になる訳でございますけれども(笑)、とても年金で生涯保証される、いわゆるご隠居さんというイメージは全く無く本当に死ぬまで働かなければなりません。死ぬまで働かなければならないとなります、どうしても時代に即応して自分を変えていかなければならない、つまり生涯学習をしなければならない、こういう時代が来たのではないかと思っております。それで、私はセンター長に選任されました時に、いろいろ考えました結果、どうもこれは「生涯労働、生涯学習」ということを基本において、この上で大学がどう貢献できるかという問題だと思い至った訳であります。
この間、私ども静岡大学におきましては、大学開放の為のいろんな施策を、特に90年代の始め、大学設置基準の大綱化といって、大学に独自判断が非常に広く許されるようになりましてから、教養部を解体するとか、或いは社会人入学を進める、それから本年度から発足致しましたけれども、大学院で昼夜開講制までも行なっております。そして駅前にサテライトもおこうではないかということも計画にのぼり、また短期大学部が夜間主コース4年制ということで、工業短期大学部ついで法経短期大学部が工学部及び人文学部の中に組み込まれた訳であります。
これと併せて、実はもう一つ静岡大学ではキャンパスミュージアム構想を進めて参りました。静岡大学のキャンパスというのは日本では少なくとも、3番目、3本の指に入る実に美しい大学になりました。特に、本当に11月から2月までの夕日などときたらこれはもう本当に美しいのであります(笑)。私は有度山夕陽学舎とひそかに名付けておりますが、そういう美しいキャンパスを持っている。片山砂漠といわれたキャンパスも30年も経ちますと、里紅葉もよろしゅうございます。メイプルリーフ(アメリカ楓)の赤くなる時などはうっとり致します。雨の朝などは実によろしい。それからまた、桜。これもいいですよ(笑)。是非来て頂きたいと思います。キャンパスのこういう景観を生かしながらキャンパスをミュージアム化し、そしてその中に大学のいろいろな財産を公開しようというわけです。大学の中には古墳もあります。近くには国の史跡、片山廃寺跡もあります。これも整備しよう。それから、オストラコーダーなんて私も見たことがない、極く小さいものなんだそうですが、こういうものを大きく見せたい。或いは、南アメリカで採ってきた蝶々がいっぱいあるんです。こういうものも展示しよう。こういったものを公開し、大学を社会に開いていこうということで、実はキャンパスミュージアムというコンセプト、概念で計画致しました。一方、これと並行して、生涯学習研究教育センターも開設しようということで概算要求をしていたのであります。残念ながらキャンパスミュージアムはまだ出来ておりませんが、一足早く今年度に全国第15番目ののセンターとして設置されたのであります。
私は、センターが出来たのは、やはりなんといっても本県が生涯学習の先進地域であるという事が、大きな要因になっている、と思っております。ちょっと矛盾するような事を言いますけれども、実は今までの14大学というのは、大体日本の辺境と言っては恐縮でありますけれども、どちらかって言うと、生涯学習の場が民間や地方団体などで整っていないような所で、国立大学をどんどん開いていくっというやり方で作られてきたという経緯があります。ところが、東海4県で初めて静岡に出来たというのは、かなり実験的要素がある、生涯学習の進んだ所で何をやるか見てみようという所があるのではないかと私は受けとめたのであります。では、何をすべきか。そこで考えたのが、先程もちょっと山本先生のお話に出ましたが、大学は教育、研究という2本の柱がありますけれども、もう一本、開放と言う柱を立てる必要がある。従来、社会的活動と言ってきたものですが、私は研究、教育、開放という3本立てにすべきである。この頃、大学は自己評価、自己点検ということが進んでおります。その中に第3の柱として、開放度というものを入れなければならない。社会的奉仕と言ってもよろしいんですが、所謂大学開放というものをもう一つ評価基準として入れよう。長崎大学ではすでにやっているそうでございます。そこの学長先生が国大協の中心人物だということで熱心なのだそうでありますが、我が静岡大学もこれをやる必要があると思っているのであります。
次に、静岡大学の歴史と特色という事でございますが、これにつきましては14ページと15ページの所に沿革図を掲げて置きました。静岡大学は1949年に創立致しまして、1999年に50周年を迎えます。ただいま50周年の記念事業の展開中であります。その前身は右の方に書いてありますけれども、1875年に教育学部の前身、静岡師範学校、既に 120年の歴史を持っております。そして静岡高等学校が1922年、同じく浜松高等工業学校が1922年、そして農学部の前身であります県立静岡農科大学が1950年に合流という歴史を包み込んで、今日に至るわけであります。ただ今改組が行なわれておりますので一部複合しておりますが、完成の暁には、6学部6研究科1研究所4センターからなる総合大学となるのであります。
以上は組織でありますが、次にこれを構成する人的な面を申しますと、ハ)に上げましたように 700人+αの研究者、この+αってなんだと思われるでしょうが(笑)、これは名誉教授などのOBであります。私も4月からいよいよこの+αに入る訳でありますが、この+αを入れますと、約1000人と私は概算を致しました。とにかく1000人の研究者が大学にはいるのであります。医学部がないというのが本学の残念な所でありますが、実に1000名の研究者を擁している。そして 400人の職員がこれを支え、1万人の学生、そのうち学部学生が9000人余、そして院生約800人という非常に大きな組織体になっているのであります。その特色を一言で申しますと、実学教育と学部教育にあると思います。旧制の高等学校や専門学校を前身として持っておりますので、全体として学部教育に非常に熱心で、充実しているという事が言えるかと思います。しかし、最近では理工系を中心に研究機能も充実して参りました。特に電研は地方大学最初の研究所として知られております。しかしながら、研究者養成のアカデミーと言いますか、その面で見ますと文科系ではなお発展途上にあると言わざるを得ない。また、総合大学としては医学系を欠いているという点が致命傷であります。それは医学部設置問題が大学紛争時代と重なった為にこういう事になったのであります。卒業生については、地方自治体、学会・教育界、法曹界、その他民間各方面に活躍しています。
さて、センターの体制と活動の重点目標という事でございますが、本センターは学内共同教育研究施設のひとつであります。最後の16ページと17ページに本学のセンター規則を掲げて置きました。その第2条に、「センターは、学内共同教育研究施設として、本学における学術研究の成果と教育体制に基づき、生涯学習に関する教育及び研究を行なうとともに、地域に対する大学開放と生涯学習の普及及び推進に資することを目的とする」と、まことに厳かな表現をしておりますが、これが我々の目的でございます。それを一言で言いますと、本センターは学長直属の組織でありまして、学部には付属していない、小なりとはいえ、学部と並ぶ組織だという事がこの特徴であります。専任教官としましては、本学は2名の教官を持っております。一人は社会教育の博物館学の専門家を教授としてお迎え致しました。先程来この司会をして頂いております、柴垣勇夫教授でございます。それからもう一人助教授に教育学の生涯学習論を専門としております、阿部耕也助教授を採用致しました。11月、12月にそれぞれお見えになりまして、本日を迎えている訳であります。この他、平成10年の4月から教育学部に、生涯学習課程生涯学習専攻課程が学生定員10名で設けられる事になっています。
こういったものが結合致しまして、このセンターが運営されていく訳でありますが、とりわけ私どものセンターでは一つの試みと致しまして、第9条とそれから第10条、第11条に示しましたように、教育研究担当教官という学内の研究担当教官を併任していくという制度を明文化致しました。私この作成にあたったのですが、これはちょっと他にはないように思います。それともう一つは、客員研究員及び客員教授等をお迎えするという事でございます。国立大学ではどこでもそういう事は出来るのですが、センター規則の中に明文化しているというのは、本学の特色だろうと私は思っております。そういう事によって、比較的少ない専任スタッフでございますけれども、センターに学内外の力を結集してさまざまな活動を展開していきたいと思っております。
では、運営の重点目標は何かと申しますと、第3条に、「センターにおいては、次の各号に掲げる業務を行う」と致しまして、1から8番まであります。諸大学の事例を参考に致しまして、議論の末、大体こうと落ち着いたのですが、これはいわゆる総花的であります。本学としましては、ここに上げましたように、まず公開講座、これは基本であります。公開講座については、本学はすでに10数年の歴史を持っております。これを継続して行なう、第2は生涯教育の指導者養成であります。この指導者養成では、すでに教育学部を中心として社会教育主事の講習を行なっております。或いはここにおいでの方々でもすでにそれをお受けになられた方がおるかも知れません。平成10年、11年と続けて、静岡大学が行なうことになっております。これも指導者養成の重要なことですが、そのほかに私は研修とか共同研究を進めることによって、先に,示した客員教授や客員研究員という制度を運用しながら進めていったらどうかというふうに考えております。それから第3番目には、情報提供ということ、当然先ほどからいろいろ指摘のありました相談窓口なども開くというようなことを考えていきたいと思っております。とくに静岡県に置かれた国立大学というのは、生涯学習先進県での位置づけと役割といことを余程しっかり考えないとやっていけないと思っております。ただ公開講座をぶちあげるだけでは、これは民間のものと鉢合わせしたり、あるいは市町村の企画と競合することになります。どうしたら静岡大学の個性と特色を生かしてお役に立ち、しかも存在感を示せるか、これがこれからの課題であり、また今日みなさんのご意見をいただきたいところであります。最後に、そういう本学の在り方を私の言葉で締めくくらせていただきますと、わがセンターは大学の開かれた窓でありたいと思っております。つまり、開かれた窓から大学の熱気を外に送り出したい。そしてまた、外の清新な風を学内に迎え入れたい、ということであります。これこそが大学の開かれた窓としてのこれからのセンターのありようではないかと、私は考えております。御静聴ありがとうございました。
パネルディスカッション
コーディネーター 静岡大学教育学部長 角替弘志
パネリスト 山本恒夫、庄田 武、渡辺妙子、原 秀三郎
角替
後半のパネルディスカッションのコーディネイーターをつとめます角替です。どうぞよろしくお願い致します。本日は、本当にたくさんの方々にご参加いただきましたこと、心から御礼申し上げます。先程、原センター長から本生涯学習教育研究センターの設立等につきまして説明がありましたが、このように多くの方々にお出でいただきますと、このセンターの役割の重要さを改めて強く感じるしだいです。センターがこれから実りのある活動をしていくためにも、このパネルディスカッションの中でパネラーの方々からご意見をいただくとともに、会場の皆さん方からもいろいろなご注文をいただければと思っております。
先程、原センター長から静岡大学は非常によい大学だというお話がありましたが、ひとつ落ちていたことを申し上げますと静岡大学は実は国立大学の中では一番高い所にある大学です。これからは、教育・研究の内容面におきましても、実質的にその高さを誇れる大学になるとともに、その成果を地域社会の方々と共有するために、このセンターは中心的な役割を担わなければならないと思っているところでもございます。
ここで改めて、パネラーの方々をご紹介するまでもないと思いますので、早速ご発言をいただきたいと思います。最初に、静岡大学教育学部でも博物館学の講義を非常勤講師として担当していただいております渡辺妙子さんにお願いしたいと思います。先程「日本刀は、折れず、曲がらず、よく切れる」というお話がありましたが、それは何故かという回答をまだ聞いておりません。実は、忘れないうちに聞いといた方がいいと思いますし、その回答を聞きませんとどうも気持ちが落ち着きません。(笑い)渡辺先生、まずその所からお話いただきたいと思います。
渡辺 すいません。時間切れでお話が途中になりました。あの室町時代の草子ものとか、いろいろと物語を読んでおりますと刃が折れたというお話、曲がったというお話がいっぱいでてまいります。でも、日本刀はやっぱり、折れないで曲がらないでよく切れるんです。それはある前提があればできるんです。で、あのちょっと話が飛びますけれども、あの野球の王貞治選手が、あの方は剣道をやられたそうですけれども居合いを、ホームランを打つには玉が飛んできた時に、玉の真芯を真っ二つに日本刀で切れるその技術がないと、本物のホームランが打てない。日本刀もそういう使い手ならば、折れないで曲がらずによく切れるということなんですね。見て美しいあの日本刀を勉強するには、その知識と、見る、鑑識眼が必要で、それだけでは日本刀はわからない。じゃあもう一つなにかっていったら、修行が必要なんです。で、それは剣として使ってみて使い手が本当の使い手になって初めて日本刀のよさがわかると。ですから、知識と感性と、そしてさらに修行を加えて、この三つでもってものが完全に分かる、とそういうことをいいたかった訳です。(拍手)
角替 ありがとうございました。日本刀が折れないような真の使い方にするということは私どもの生涯学習教育センターにも実は求められているわけです。切れなかったり、折れちゃったり、曲がったりしては、本来の目的が果たせないわけですので、センターとしても修行を積み重ねる覚悟をしなければならないと思います。
ところで、このことは本当は最後にお聞きするのが一番いいとは思うのですが、これも私自身が忘れないうちに伺いたいとお思いますので、「本センターの構想」について、すなわち、私どものセンターは、原センター長がお話ししましたような構想でスタートしようとしているのですが、そのことにつきまして、山本先生、庄田先生から、感想あるいは注文をお聞かせいただけるとありがたいと思います。山本先生いかがでしょうか。
山本 あの、原先生が最後におっしゃったことが私非常に印象に残っておりまして、先進県の中での役割を考える必要があると、本当にその通りだと思いますですね。そんなことを考えますと、私が生涯学習の隅のほうにおいていただいている立場からいえば、地域となんとかネットワークはできないものかと思います。地域と大学のこのセンターでネットワークができないものか。人の面でのネットワークもありますし、先程申し上げましたように、これからはマルチメディアも発達しますから、マルチメディア・ネットワークも考えられます。これからは一つ一つの地域が独立して何かをやろうとしても無理な時代ですよね。そう考えましても、ネットワークは大切で、そういうときに大学が、それに先導的に関わってくださるということは、非常に力強く、心強いことでありまして、そのあたりのところが、もしお願いできればというところですね。
角替 ありがとうございました。庄田先生いかがでしょうか。
庄田 あの、まあ、最初に率直な感想なんですけれども、あの私なんかも非常に古い時代の大学で学んだものですから、まあ大学というところはまさにその象牙の塔の意識で、先生方もこちらが求めていけば教えてくださいますけれども、向こうから手をさしのべて下さるといったことは、はとんど経験していないんです。ですからこんどの生涯学習研究センターがですね、それこそこの一つの社会的な貢献をするサービス機関として、大学がそれを設置して、先生方とにかくあの、大学の窓口として、一般の人たちにいろいろ学習の機会を与えてやろうというその姿勢がまさに日本の大学も変わったなあという感じと、やっぱりそれだけ時代がかわってきたんだなという感想を率直にもったわけですけれども。えー、今度はですね、あの、それを、そのすばらしい理念をですね、実際にどういう形で具体化されていくのかですね、特にこれは非常に大学の先生方がこのなかにいらっしゃったら失礼ですけれども、あの非常に大学の先生方のなかにそういう、現代というのをとく理解され、そして我々はサービス業なんだと理解されて、どんどん民衆のなかに入ってきて下さる方もいらっしゃれば、大学の教師というのは、安売りしないんだというような非常に高い姿勢のまま、自分が大学の先生になったのは自分の先生たちのあの偉そうなのを見てて憧れでなったんだという方がまだいらっしゃいますから、その人たちの意識改革をですね、ぜひともセンターの外へむかってと同時に中へ向かってですね、大学というのは県民市民のためにあるのだということを少し啓発していただきたいなというふうに思ったわけです。(笑)
角替 ありがとうございました。大変、率直なご意見で、原先生に代表していただいてよろしいでしょうか。
原 はい、これはなかなかストレートには答えられないのですけれども少し我々がこの一年間センターをたちあげるために討論を重ねたり、私自身も少し視察をしたりして考えてきたことをもう少し申し上げたいとおもいます。まず地域と結びついていくかということ、そして大学が大学らしい機能をもって地域にサービスをどのようにしていくかということでありますが、今おっしゃられましたようにあるいは、先程の話にもありましたようにTV等のネットワークを繋いでいくという、これも確かに重要なことだと思います。これはいわずもがなですが、本学は発祥の大学ともいうべきことでもありますし、電子工学研究所もある、そういう意味ではテレビ大学といってもいいわけであります。実際に私どもの所でも東部と西部を会議などではTV会議もいたしております。しかしまだそういう点でいいますと、そういうノウハウや、そういう伝統をもちながら、生かしきれていないという点があるとおもいます。これはやはり西部の方の先生方にもよくお助けいただいてこのセンターがこれから考えていかなくてはならんと。これは大学全体としてもやはり面倒をみてもらわなくてはならんことだろうとおもいます。それからもう一つ、ところがやはり講義というのはライブでないとおもろないということですね。これがあるんですね。この実は要望というのが、放送大学の現在、三島のサテライトの所長さんをやっておられます、私どもの大学の先輩の先生がおられるのですけれどもその先生はやはり放送大学などをやっていると学生はどうしても面接授業にいきたいんだと、これはやはりどうしても静岡大学あたりの公開講座というものを大変生かしてほしいというふうにいうんですね。ところが、今の場合にこれは十分ではなく一部あるということなんですが、放送大学と本学との間にその単位互換が成立していないのです。今やるとなるとこの科目等履修生という制度がございまして、これでもって開かなくてはならない。とこらが、科目等履修生というのはそうとうたかいものでございましてね、入学検定科とか、入学科、1単位一万数千円するんです。そうしますと、2単位取れば2万円で4・5万かかっちゃうというような制度の問題がございます。まっ、ただあの大学間協定を結べばまた別にできるんだそうですけど。今のところで、開こうとすればそういうことであって、これひどく古いめんついちゃうというような問題があるわけですね。それともうひとつ、その公開講座を私も何とかこの公開講座で、単位を出せるというを考えようということで、実はそうとう視察を重ねてまいりました。で、やっているのは、茨城大学がひとつやっておりましてこれはどういうやり方をしているかといいますと、土曜日に開きましてそして学生を半分、それから一般の方を半分、約80人ぐらいのクラスを3・4つ、4つ5つつくりましてこれでもって学生には、単位を与える。それから一般の方には、講義を公開講座としてきいてもらう。ところが、このやり方をとりますと、3年間同じものをやり続けるということでバラエティがどうしても少なくなるという問題があって、学生は聞き続けるけれども公開講座の方は、年々ダウンしていくと。始めは定員40名以上のが80名以上あったのが、その次はもう応募が40ぐらい、その次は2・30だと、こういうような問題があるというふうなアイロンがあるようであります。こういったものをうまく結合させながら、やはり大学でなきゃ絶対にできないのは、単位、本当の単位を出すこと、つまり国際免許の単位をだすということですね。これはすごいことなんでありまして、これをなんとか公開講座とか、そういったところで比較的安く出せないかと、そうして例えば、もうほとんどもうちょっとで大学を卒業する資格があるけれども、やっぱりいろんな事情でやめていたような古い人たちが、古い卒業生、中退生たちが1単位、1単位を重ねながら、この学位認定機構にだすことによって単位を獲得していくと、あるいは学士を獲得していくと、こういうふうな制度に、まっこれもいづれ頭打ちがくると思いますけれども、やはりこういうことができないかということで、私は少しこの一年間考えてきました。これは、必ずしもまだ軌道にのらず、今後に、今年中にやりたいなあと思いながらできなかったんですが、そういうテレビで広くやるのも必要ですが、やはりライブの授業ということでしっかりと単位も出すし、お役にも立つというようなことを考えたいなあということがということが1つであります。それともう一つはやはり先程申し上げまして、説明がすこしたりなかったようなのですが、研究と研修といいますがやはり指導者養成にやはりとりわけ関わっていくということが必要ではないかと、実は今日も、あのこれは、県の今回の件は学長からの謝辞もございましたけれども、静岡県総合教育センターの非常に大きなお力添えがあって、それによってこの世界になったと私は、大きな力の一つだったと思ってぉります。その時に教えていただいたのは、静岡県民大学の葵学園の方々がここへ出てまいりますと、あとで単位をとれるということで帰りにシールをお貼りすることになっているのですが、そういうものと結びつくとそういうことによってまっこういうものもどんどん広く単位になっていくのですがそうして育てられた人たちが、やはり地域地域でこの中核的な、生涯学習の推進主体になっていると。こういう方々がもう一度リフレッシュしたり、あるいはもうちょっとテーマをもって大学の資料や、書物をもっと使って研究する羊とができるような、これを私は研究員制度、あるいは客員教授制度といったわけですが、こういったようなものを本学が受け入れる体制を作り、そういう机も備え、あるいはパソコンも余分においておくと、そういう施設にセンターをしていくことができないかというふうに考えております。こういうことがこの間考えた総論的なことでございます。
角替 ありがとうございました。先程センター長からもご説明があったのですが、静岡大学生涯学習教育研究センター規則第3条(業務)、第2号で「生涯学習の成果の活用にいての調査研究」に関する事項が定められております。実は、このセンターを構想する段階でも「学習成果の評価についての研究」を重点的に行うことが検討され、概算要求書にもそのことが記されております。これまでは大学の公開講座でも、一般的には「学ぶことに意義がある」と考え、学習の結果を評価するということは行われてきませんでした。しかし、資格等に関連してきますと、公開講座等においても評価し単位認定を行うことが求められてきます。この評価の部分について十分研究しながら制度化を検討しなければならないと思います。先程、山本先生のお話の中にも単位認定のことがでてまいりましたが、山本先生そのへんどうなんでしょうか。
山本 あのですね。先程お話があった単位認定のことなんですけれども、おっしゃるように値段が高くなっちゃうんですね。授業料が…。で、今日は清水企画官が来て下さったていますけれども、だいぶ前の時にそこのところが問題となりまして、文部省の中でも生涯学習局の方が高等教育局にいって下さって、なんとかならないかということになっているんですね。これがネックなんです。というのは、私立大学はやっているんですよ。九州の方の大学ではですね、三枚看板というのをやっています。二枚看板というのは普通は大学の講義と公開講座をかさねて、公開講座でも、科目等履修生で単位を出しますよね。三枚看板というのがあるんですよ。島原市は社会教育の講座として、今の公開講座を重ねています。そうするとそれは教育委員会の事業でもありまして、大学の公開講座でもあります。さらには、大学の正規の単位も取れます。これを三枚看板というんですね。そういう所が出てきているんです。それから、私学なんかですと、エクステンションやオープンカレッジで立派なものがあります。その中のいくつかは、教授会で審査して、科目等履修生としての単位を出してもよいというのは、出します。そうしますと、一般の方はくるんですけれども学生もたとえばエアロピックスなどは授業にはないので、それをとって、大学の単位にしてしまうというのさえあるんです。そういうようなことは可能なんですけれども国立の場合、お金がかかるのが問題でそれはもう粘り強くやっていただくしかしょうがないと思うんです。
もう一つは県民カレッジの評価ばどですが、このところはこれから非常に大事になってくると思います。県民カレッジなんかでも、大学の公開講座も一緒にしたいといってもなかなか大学の方が受け入れてくれないという問題があります。先生にお伺いするといいじゃないかというけれど、教授会にかかりますと、たてまえが前面にでてきまして、そもそも国立大学の使命はとなってきて、県とは違うといって結局だめだということになってしまう訳です。最近は大学側の理解も深まり、県民カレッジに加わって下さるところも増えてきました。まだ、そのような連携が進んでいないところでは、大学の公開講座の修了証などを県民カレッジでの単位に換算させてもらってはどうかと思います。これでしたら問題はないのではないでしょうか。大学での学習成果の活用の1つともなります。
角替 はい。大学の教員の肩を持つわけではないのですが、単位の問題を含め、大学を開くということで一番問題になるのは、大学側の言い分で言いますと、水準の問題ではないかと思います。講義の内容の水準を落とすわけにはいかない。もちろん、評価においても今までの水準を落とすことはできない。したがって、これまでの水準を維持していこうとするならば、簡単に評価し単位を認定することは極めて困難だということになるわけです。このことは日本だけでなく、外国でも同じような議論がなされています。渡辺先生、このへんのことについて、どうお考えでしょうか。
渡辺 その受講者があって、水準ができるんであろうと、思うんですけど。ですから、教授自体、レベルの高い非常にすばらしい人格をお持ちの教授がいい授業されても、聞く生徒の水準が、低ければ、どうしようもないということが、ありますけど。優れた教授の下にはいい学生が集まり、いい社会人も集まる。ですから社会人が入って、それでレベルが下がるというのは一概に言えないのではないかという、社会人が入ってレベルがあがるという可能性もあるのではないかと、ですから、こう、観念的に考えない対応の仕方ができないものでしょうか。
山本 この問題の解消のためには、最初に申し上げたんですけどもカリキュラムを2本立てにしなくては無理ではないでしょうか。つまり準備教育の方で大学の先生は考えてましてね、社会人が、むしろ今の問題をどうやって解決するのかというところで、いろいろ具体的な事例などのことを聞きますと、先生方は水準が下がったと思うことが多いように思います。問題解決型の勉強と系統的な勉強は違うんですから、そのへんを意識していただいて先生方のほうも。問題解決型の教育をどうするのかということを考えてもらわないとだめなんですよね。たとえば、先のテレビ会議システムで福島と結んだ場合、20分先生が講義をしたら、もう飽きてしまいますよ。最大20分です。だから15分で切って、むこうとやりとりするんですね。ディスカッションをやったりしながらいかなければ面白くないんです。大学の先生がこうやって90分話をしていたら、つまんないですよ。(笑)ですから、そこでばっと切ってどうですかとやりはじめると、じぶんたちも参加しているとなりますから、いいんですよね。そういう教育方法、学習の援助の仕方の工夫をしたり、中身のほうの考え方も切り替えないと無理じゃないですか。
角替 なるほど。庄田先生、実は庄田先生も県の新大学整備推進顧問というお立場におられますが、新しくつくられる大学でも同じような問題を抱えるだろうと思うのですが、このことをどのようにお考えでしょうか。
庄田 はい、こういう言い方をしますと、今の大学のあり方とか大学の先生がたを批評するようなかっこうになってぐあいわるいんですけれども、誤解を恐れずに申し上げます。新しくつくる大学は、一応公設民営という形にしております。つまり、建設費・運営費は県がお金を出して、あと、実際の運営は学校法人、つまり、私学のかたちで経営するというかたちをとっております。これはひとつには、私学の自由度といいますか、今お話がありましたように公開講座でもなんでも、お金がかかればお金をとってやることも可能なんですね。公立だと自由にできませんので、こうした小回りの利くような大学にしたいと考えているわけです。それで先生がたにも最初できるときにお願いしておこうとおもうんですけれども、公開講座はこの大学の先生の一つのつとめなんだということで、最初から覚悟を決めてきていただくというようなことや、先生方には地域の人たちと気張らずに交流し、相手にしてもらうようお願いしたいと思っています。校内に200坪ばかりの自由工房という大きな、何でも製作できるような部屋をつくりますけど、それを一般に開放して、誰でもそこに入って、作ってもらう、何かやってもらう。こうしたことをやりたい、こういうものを作りたい、勉強したいとあれば、指導する先生を用意する、その場合に地域の技術者を頼んだらどうだろうか、とか考えています。できるだけ私立大学の持っている自由度というものを活用しながら、お金は県に頼るというのはムシが良いようですが、もちろん自助努力もして、稼げる所は稼いで、ユニークな大学を作って行きたいと思っております。その他、宣伝めいて恐縮ですけど、公開講座も大々的にやって行きたいと思いますし、昼夜開講も科目の先生によってですけど、できるのならやって行きたいと思っております。自由工房のお話しをしましたけど、もう一つ文化芸術研究センターというこれも2〜300坪になりましょうか、大きな空間を用意しまして、これは自由に作品を展示できるギャラリーにもなるし、劇や音楽の発表もできるような場所にもなる芸術の発表の場を作りましてこれも地域の人達に開放しようというようなことを計画しております。
今、講堂とか体育館とか、食堂も地域の人たちに開放しようと計画しています。食堂はできるだけ、町の一流レストランに負けないような味と雰囲気のヤツを作ろうと思っています。屋根が2つ、波を打った校舎の屋上に、五階建てぐらいですが芝生を張りまして、「創造の丘」なんていっていますけど、皆さんの散歩道、あるいは冬にはひなたぼっこの場所にしてもらうとか、地域と密着した大学にして行きたいと考えています。山本先生がおっしゃってくださっている、よその大学の例なんかも参考にしながら、先生がたが考えていらっしゃるようなことをどんどん取り入れて、地域に開かれた大学を作って行きたいと思っております。
角替 ありがとうございました。大学を外に向かって開いていくためには、大学と地域のネットワーク化、あるいは大学の講義自体の改善等のさまざまな面からの検討が必要であると思います。実は、渡辺先生のお話しのなかに「聞く」ということ、「見る」ということについてのお話しがございました。大学はどちらかと言いますと、「聞く」ということが中心であって、実際の場面や実物を見ながら、あるいはそれに触れながら学ぶという側面が、ある意味では非常に欠けているのではないかと思います。しかし、わたくしなど社会教育、生涯学習のことをやっていますと、例えば実践的、実習的に学ばなければならない事柄については、どんなに頑張っても大学では限界があると思わざるを得ません。となると、むしろ博物館とか青少年教育施設等に、学生の側が、いわば大学の側が出向き、それらの施設、機関と緊密にリンクしていかないと、本当の教育は出来ないのではないかということを強く感じています。渡辺先生、どうなんでしょうか。博物館ということに限って構いませんので、その辺の可能性についてお話しください。
渡辺 はい、そうですね。いつかドイツへ行った時だったとおもいますけれども、博物館に来て、それは子ども達だったですけれど、子ども達が一時間以上もそこで座って先生とディスカッションしてたりという、光景を見たことがあるんですけれど。それは大学生じゃない、もっと低学年でしたけれども。あの、美術にちょと限らしていただきますれば、大学の場合色々な授業、スライドなり、ビデオなり使ってやる訳ですね。ですから知識だけはつくんですけど感性が養われないんですね。いくらいい写真が出来ても、いくら美しい写真を見ても、実物でなければ味わえないものがある訳で、それが一番博物館の大事な所ですね。そういう実物を見ながらやるという、ですから、実物の在るところまで動いて行く、大学教授も一緒に動いていく。そういう何か、広がりをもっていただければもっといいんではないかと思うんですね。まあ、美術というのは非常に範囲が狭いんですが、博物館が扱う「もの」というのは自然界なんでもすべて「もの」、「文字」以外のというぐらい、すべてですから、そうしますと、動植物であれ、または、人体、人間そのものであれ、そういうものを実物を見るのに大学の研究室だけで扱うのではなくって、そういうフィールドワークというんでしょうか、現地へ行って実際に研究活動していくというそういう活動がもっと広く学生もですけど学生以外にも社会人ともそういう活動が密接につながれば、私はもっと生涯学習としてのプラスが非常に大きいのではないかと思います。それと、誠に申し訳無いんですけども、大学の先生方というのは非常に深い知識をおもちですけれども、その地域に根差したさもないことでもその知識に重要なことってありまして。そういうものは地域の人達の方が非常に大事な情報をお持ちなんですね。それを教授のほうもあるがままに受け入れながら、それによって一つのネットワークができるのではないかな。そういう可能性というのはこれから開かれた大学という中では非常に大きく期待されるのではないかなとういうふうに、思うんですけども。
角替 大学のなかでも、最近「学修」という概念が入って来ました。「学ぶ」という字
に「修める」という字で「学修」。大学以外のところで学んだ事柄を大学の単位として認めるということです。その辺のシステムをどうするのかということがこれから非常に大事な課題になるのだと、今お話しを承って思いました。
渡辺 一つよろしいですか。つけ加えて。今博物館法が改正されようとして、また、その改正の委員にもなっているんですけれど、そこでいちばん問題なのは、大学の講義だけで学芸員の資格が取れるということです。それを改正して、お医者さんのインターンみたいに博物館で実習を3年、という案もあるし、5年、6年という案もあるんですが。それぐらい実習したものでないと学芸員の資格を与えるのはよそうと。ということは実物に即してものを学び実物に即したものの考え方をして行くということが行われないといけません。今小学生にニワトリを描かすと足を三本描く子がいるとかね。そういうように実際にものを知らない人間が一杯出て来てしまっている。で、世の中少し危ないんではないか非常な危機感をもつ訳です。今まで日本人は皆あたりまえに自然界のものを認識していたんです。今こういうコンピューター世界に育った、テレビ時代に育った子ども達というのは大人の当たり前が当たり前ではない。だからこそこれからは本当に実物に即した教育というものを真剣に考えて行く必要があると思うんですけれど。
角替 山本先生、現在、資格制度のいろいろな改革の問題が出て来ていると思うのですけれども、その辺のことも踏まえながら、実物に触れながら体験的、実践的に学ぶということの問題を大学で修得する単位等の問題とのかかわりでご意見をいただけますか。
山本 おっしゃるように、いろいろ動きは出ていると思うんです。大学なんかでも例えば、英検一級を単位として認めるとかですね。生涯学習の理論からすれば、体験というものの持つ学習性というのは、すごく大事なんですね。例えばちょと変わった話をするようで申し訳ないのですが、経験というものは人間にとっていかに大事かということですね。今日ここにお集まりの皆さんのだれか一人にお願いして、自己紹介をしてくださいますか、としますね。すると、わたしはこういう者です。といいますね。もうちょと詳しく聞きたいんですが、というと、経歴を言ったりして、最後は自分が今までなにをやって来たかを話ますよ。自己紹介をしていって最後に言うべきこととなると、それしかない。その人の人格というのはその人の経験なんだといわれます。それしかないんですよ。それほど大事なものなんですよね。ですからそこの中に蓄積されているもの、知識、技術、いろんな知恵もそれを上手に引っ張り出して、社会に活用していただく、貢献していただくあたりは、観点としては、ものすごく大事な観点だと思います。具体的には狭い世界ですが、今お話がございました学芸員とか社会教育主事とかの資格科目の検討の中で、高校だけで、短大も大学も出ていない場合でも、3年間経験を積んであれば、受講資格ありとなっては来ているんです。これからそういう動きは出てくるんではないかと思います。
さっきから出ているお話で、私も、渡辺先生から出ているネットワークの成立要件というのは、やはり互恵性にあると思うんですよ。お互いにプラスになる所がないと、ネットワークというのは成り立たちません。ですから大学側も、もちろん地域の側に貢献するけれども地域の側も貢献していただく。先ほどのような実際の体験の場とかですね。そうすると大学の先生の態度もほぐれてくるんじゃないか。「あっ、こういうプラスになることがある」ということで、大学の先生達も認識を改めてくださることもあるだろうし、特にこれから、若いほうの学生さんのことを考えますと、日本にとって一番大事なことは、創造性を延ばして行くことですね、静岡大学でもさっきのお話のようにブラウン管の山下さんという方が浜松のほうに
角替 高柳さん、高柳さん
山本 そういう方がいまして、伝統があります。名前、ごめんなさい。山下さんというかたは、高柳先生のお弟子で、そのかたをよく存じ上げていたもんですから。そのような伝統がありますから、そういう創造性を育成するのが特に大事じゃないのかなと。
角替 ちょっと余分なことを申し上げますと、高柳健次郎博士はですね、静岡師範学校の卒業生なんです。そのことを皆さんが意外に知らないん。浜松高等工業学校でテレビを発明したということだけが喧伝されまして、工学部だけが脚光を浴びるんですけれども、その基礎は静岡大学教育学部で養われたことを、ちょっと余談ですけれども強調して置きます。余分なことを申し上げて申し訳ありません。
今、開かれた大学ということから、単位認定等の問題までいろろご意見をいただきましたが、これからは大学を中心としてさまざまなネットワークをつくりあげ、それを強めていくことが必要であるこが改めて明らかになったと思います。このセンターは、まさにその結び目として機能することが最も重要な役割となります。原先生、その辺覚悟の程を……。
原 はい、あの、一つは初めから予防線を張る訳じゃないですけれど、やはり何と言っても専任教官2名のスタッフではですね、率直に言ってそう大きなことはできないということがあります。そこで私は先程も言いましたようにこのセンターというものは周りに学内の兼担教官も、参集してもらわないとならないし、それから地域の関連のかたがたにも、色々とお力添えや共同で仕事をしていかなきゃならないと、いうふうに思います。そういうことを前提とした上で、実はもうひとつ大きな問題は、最初、ちょっと前に出た問題で、私、一言言わせてほしいのは。学問、大学は開くというときに、どちらかというと私のやっているような歴史や法律、経済なの現状の話等というのは比較的日常感覚に受け入れやすい面がある訳です。ところが、例えばテレビのものすごく難しい所とか、あるいは機械工学のとか、あるいはバイオテクノロジーの先進部分を話せと言っても、そんなに簡単には、おれは聞きたいから、といって分かるものじゃない、と思うんです。つまり、ここにはどうしても学問というものは、そこに、ある一種の修行とか、改定性?というものをクリアしてこなきゃやれない、と言う問題が必ずあると思うんです。今大学で私は文化の学問は、比較的そういう点については、高等学校から割合アクセスできるし、それから文化のほうの学問は本のほうも相当読みやすくなっていますし、ほとんどが日本語でできますし。そういう点ではちょっと頑張っていただければ、大学の教授の話すことぐらい分かる人は相当要ると思う。しかし、自然科学となるとそう簡単には行かない。数式もあるし、文章も、少し深く入れば、ほとんどが外国文献と言うことになるわけです。ですからどうしても、その間には長々と、それに面倒見てられるか、という先生も確かにあるんだと思うんです。これはもう否定できないんです。そこで僕は大学が考えなきゃならないこと、あるいは地域で考えなきゃならんことかもしれませんが、けれどもアメリカなどではハーバードにしても、僕もちょっと見て来たんですけど、あるいは、有力な各地方の大学などではやはり、高等教育の水準、最低限必要なもののインテンシブでがーっと教えるコースがあるんですね。これは高等学校の先生あたりが普通だったら一年、4単位かけるものを半年ぐらいで一気にあげる。やはり、どうしても必要だろうと思うんです。例えば日本史で言いますと、やっぱり、高校のあまかわ?クラスを挙げといてももらわなきゃ。それはちょっと特殊?食いつけませんよ。これを正直言って戦前の中学水準でね、「おれは歴史に関心がある」といって、テレビ見て、あとは司馬遼太郎の「竜馬が行く」といったものを見て歴史に関心があるって大学の講義に?ってそれは分からない。ここのつなぎ目といったものを我々は、全体の問題として考えなきゃならない時期に来ているんじゃないかと。例えば、どうしても聞きたいんだったら単位制高校のこれとこれを聞いて来い、というぐらいのことをやっぱりやらないとならないとだめだ。それと同時に今、我々のほうからでているんですけれど、日本史を選考したいって学生が高等学校で日本史を聞いてこない。あるいは、応用化学をやりたいって奴が化学の授業を取ってこないで、今理科の生物何かで入りやすい奴でとってくる。これは本当にお困りなんですよ、大学のほうもね。これも私は何回も聞いている。だから相当大学のほうも、そういうインテンシブなものである種のものを一片に詰め込む。これでこちこめたら?適応しないとあきらめなさい。細いめどをくぐり抜けなければやっぱり大学のある種の高い水準はだめですよ。僕はそういう時代が生涯学習の自分の適応性を知っていくだろうし、やはり、狭い針のめどを通っていかなきゃならんということも、やはり、ただやりたいという意欲だけで人間を取ることはできない。あるいは学問の世界は「たたきよ?さらばひらかれん」というものじゃない。ここのところをもう少し日本人はアメリカ並にやらなければならない。向こうはハーバードでもクリンストンあたりに行くと、3カ月4カ月で英語を実に上手にインテンシブに『ばっ!』と教える先生がいて、そういうプロがいるんです。このようにして、アクセスさせておいてやる。それを学問の世界でも地域の高校あたりで2、3カ月あるいは半年でインテンシブで。例えば化学をやるとか、生物をやるとか、あるいはなんとか。というものを、これからもっと作って行かないと、僕は大学は本当の意味で開かれない、いうふうに思います。
角替 ありがとうございました。4人のパネラーからご意見いただきましたが、せっか
くたくさんの方々にお出でいただきましたので、会場の方から、ご意見とかご質問を出していただきたいと思います。いかがでしょうか。どなたでも結構です。気楽な雰囲気ですし、どんどん言っていただければと思います。できましたら、できるだけ手短にお話しいただければありがたいと思います。
客席 自分は体育系で、数学が不得意だったものですから、開放講座ということで、静岡理工科大学で2単位いただいています。ここでは、私たちの聞きたいもの、やりたいものをアンケートで聞いていただいて、それにもとづいてカリキュラムを作成してやっていただいていますので、分かりやすく、弱かったものが少し興味を持てるようになってきました。だから、やはり大学の方から言葉をかけていただくことが、私たちには一番入りやすいと思っています。ぜひ大学の方からよろしくお願いします。
角替 分かりました。ありがとうございます。他にご意見、ご質問は有りませんか。何でも結構です。
客席 渡辺先生にお願いしたいのですが、実は私の町では、現在、平成12年頃をめどに町立の美術館を設立しようとして準備を進めております。前に先生から、設立のコンセプトが大切だということで、大事なことを2、3、指摘していただきましたが、少し具体的に、大事な点をご指導いただきたいと思います。
渡辺 はい、非常に大事なと言いましょうか、興味のあるテーマなんですけれども、今日のこのテーマから少しそれるのではないかという気がしますので、もし宜しければ、それはまた別個に後程とも思うのですが、いかが致しましょう。
角替 それで宜しいでしょうか。では、そのようにさせていただきます。
渡辺 では後程、終わりましてからお伺い致します。
角替 他に何かございますか。はいどうぞ。
客席 ただいま、原先生のお話を聞いて、大学ということだからなのかもしれませんけれども、非常に生涯学習とは難しいんだなあ、と思いました。私は勤めを終えて、今、年金生活をしているのですけれども、今日は生涯学習、生涯教育とはどのようなものなのか、一応知りたくてまいりました。私も自分なりに本を読んだりして、勉強しているんですけども、これから後、まだ20年近く生きる訳ですので、その中でいろいろ生涯学習というものに、取り組んで行きたいなと思ってきました。しかし、今、原先生の話を聞いていると、とてもじゃないが難しいことで、私なんかとても入ることができない、そのようなものかなと思って非常に今日は私はがっかりしているんですけど。(爆笑)
角替 今、手もたたかれたのですけれども、手をたたかれた方、もう少しご発言いただけますか。
それでは、今、大学から声を掛けてほしいというご発言、「いやあ、大学で学ぶということはこんなに難しいことなのか」というお話がありましたので、少しそのことに関連いたしまして、話題を転換したいと思います。センターの役割の問題は別にしまして、「開かれた大学」ということで、パネラーの方々のご意見がお聞きしたいと思います。 実は、日本の大学の特徴は何かと言いますと、その一つは、欧米の大学に比べて、大学院の学生の比率が非常に低いことだと言われています。静岡大学は、先程ご説明がありましたけど、学部学生 9,000人で、大学院生 800人ですから、大学院生の比率は一割にいっていません。欧米の大学ですと、そんなこと、とても考えられない。イギリスでは30%を越えています。もう一つは、日本の大学院の学生の年齢が非常に若いことだと言われています。日本では、修士課程でも、博士課程でも大体20歳代です。欧米の場合は、山本先生にお聞きした方が宜しいかと思いますが、若い人ももちろんいますが、平均すれば大体30歳代の後半あたりになるのではないかと私は思われます。欧米の大学、特に大学院はリカレント教育、リフレッシュ教育の機関として機能しているようです。 そのことからすれば、先程も夜間大学院等のお話がありましたが、公開講座等だけではなく、リカレント教育のような、いったん社会に出た後、働きながら、或いは一定期間職場を離れて、大学・大学院で改めて学ぶということがもっと一般化できるような、すなわち、大学において、生涯にわたって学習をずっと継続していくことができる仕組みを整えていくことが求められてきているのではないかと思います。50歳で改めて大学に入り直してもてもいいし、60歳で入ってもいい。ただそのためには、先程山本先生からお話がありましたように、平行型或いは現職教育型というような形のカリキュラムを積極的に組んでいく必要があると思います。その辺のことを、原先生のお話を聞いてがっかりされた方もおられますので、少し勇気づけるお話をしていただければと思うのですが。
原 私の発言が声が大きいものですから、もし、逡巡させたらこれは大変私の本意ではありません。つまり、そういう大学に、先程言ったのは、そういう意欲のある人が大学に接触する場合にもう一つ媒介項が必要だと、つまりリンクが必要でしょうと、ということを申し上げた訳であります。もちろんすぐに聞ける人もいます。例えば1、2事例申し上げますと、私は積極的に社会人入学を進めて来ました。10年ほどやりました。朝日新聞の記者をやめた方でしたが、この方は昔の静岡の工業高校を出て、それから陸士へいって途中でやめた方でしたけど朝日新聞で大分ご苦労されたと。大学でていないばっかりにご苦労された所もあったでしょうね。その方はもう一度大学はいって。その方は元々理科系だったと。数学が趣味で息子の解析のほうも(まいちゃく?)解いていたぐらいの人ですから、正規の授業で入って来ましたけど、この人などは歴史をやるって言って、4年間で卒業して行きました。それからまた日本女子大学を女性の方なども、やはり卒業致しました。この人も52、3で入りましてこの人は3年時編入というのをやりまして。これまで大学出ですから入れた訳ではないわけですよね。そうして、現在お茶の水大学、女子大学の1年研究生でいて今度修士課程に入って現在修士課程で勉強しています。57、8歳です。幾つかそういう人がいますし、決してやってやれないことはないのです。ただ、それをやって行くためには、もし資格がない場合には、どうしても、どこかでそれにくっついて行くための基礎訓練を短期間にクリアしてくことが、必要だろうと、そうしないと大学のほうも面白おかしくやって行くわけにはいかない。これは正規の現役の学生が一杯いいるわけですですから。そういうことを申し上げた訳であります。まず意欲があることが第一でありますけれど、意欲だけではいけない。そのためにはどうしても途中でそういう専門分野についてのやはり理科系であれば特に困難ですけれども文科系も決して簡単ではないわけで、そういう部分を公開のところできちっとつなげて行くシステム、というものがどうも意外に必要とこれからなって行くのではないかと申し上げた訳であります。それと今度と学者の方のことを申し上げますと、実は古い大正時代の話になりますけれども、このころもち論大学というのは帝国大学しか、私立大学が弱冠ありましたが、帝国大学だった訳であります。特に京都大学では公開講座というものをずいぶんの時期に、関西でやっているようでありました。実はその中から名著が出ている訳ですね。これは西田なおじろうという日本文化史学という学問を開いた人なんです。この人が改造社から昭和6年頃に「日本文化史序説」という書物を出しました。これを見てますと、これは公開講座でやった講義が本になって大ベストセラーになったんです。つまりなかなか今読んでいてすぐに分かりませんが、これはわたしにとっていつでも念頭にあったことでして、大学の教師側からいうと大学の公開講座、大学の講義ではないものが、むしろ一般的な本屋に出版した時に大ベストラーになるような、そういう心構えが我々に必要だと。これは大学の教師側であります。よた言って飛ばしてあじゃだめです。つまり、ただ面白おかしくじゃない。つまり、自分の力量がそこで試されるんだと言う、公開といいますか。今度は大学の教師に要求されている。わたしはそこまで立派じゃありませんけども、ただわたし一つだけ申し上げますと、わたしも少し実践を致しました静岡県史をやったときに、必ずその当地の問題、例えば三ヶ日町とか例えば松崎町とかあるいは、その辺いろんなところで、そこでテーマについてはどこよりもより先に、学会でやるより先にそこでやるということを私は実践致しまして、そういう成果が県史のなかに、要約してはいりました。つまりそういうことをわたくしとしては心掛けたつもりです。やはりその土地の人に分かってもらう。それが県民にわかってもらうという普遍性に続くということで、自分としてはちょっとだけ実践いたしました。私の本はまだそれほど西田直二郎先生のような大名著を生み出すにはいたりませんけれども、やはり我々が公開講座、大学を開いていくということは、我々の心構えとしてはそういう例をもう一度おもい返すべきではないかというふうに思いますね。
角替 ありがとうございました。渡辺先生は、学問の研究のプロセスの中でいろいろご苦労を重ねられたのではないかと思うのですけれども、その辺のご経験等を踏まえて先程の問題についてご発言いただけますか。
渡辺 わたくし自身の経験のことですか?私のことになりますとなかなか誠にお恥ずかしい次第なんですけれども、わたくし正規に大学を出ておりませんで、通信教育で大学を卒業した人間で、勤めながら学費を稼ぎながら勉強いたしまして7年間大学卒業までかかりました。慶応大学の通信教育で、東京駅の近くに会社がありましたから、時間があったり暇があったりすると大学の研究室によく遊びに行きました。で、一般の大学生よりもはるかに教授と仲良くなりまして、それでこういう美術館に勤める羽目にもなったかなというふうに思うんですけれども。ですから、私は高校を出て大学に入らなくって社会にいったん出てそれからまたどうしても学びたいと思って大学行って、まさにこの生涯学習につながるなと思います。目的意識が学生とまったく違いますから。通信というのはスクーリングがありまして、スクーリングである程度単位をとりますと通年に変換できるんですね。2年間はずっと3年生4年生と一緒に入りましたけれども、みんなよく遊びますからね。私は遊ぶのもったいないから勉強しましたけれども、そうすると求める力が違いますから、教授のほうもむかえる態度が違うんですね。それは私にとっては時間が惜しいお金が惜しいですから、そういう気持ちで勉強することは非常にいいことだなと。その当時は苦学生として恵まれないという被害者意識がありましたけれども、今思うとそれは逆にありがたかったかなと思います。こんなところで私がしゃべるのはいけないんですけれど、社会にでておりまして自分が"こういうこと"を知りたいというときには大学のコースの全部を知りたいというわけではないと思うんですね。"こういう物"の"こういう事"について知りたい、ということがあるわけです。大学の公開講座というのは、こういう事をやりますよという形なんですけれども、私が個人的に要望を言うと、個々に個人的にも対応できたら素晴らしいと思うんですけれど、そういうのはいかがでしょうか。
角替 はい、最近は大学でもさまざまな工夫を始めてきていますが……
山本 シラバスですね
角替 大学でもそれぞれの教官が自分が行う授業について、授業毎に意図、目的、毎時間のテーマや内容、方法、参考文献等を中心に年間の計画を大体A4判1ページくらいにまとめ、各学部毎にそれらのすべてを冊子にして学生等に配布しています。ある高校の校長先生に聞いたところでは、最近の高校生には、これらの大学のシラバスを見て進学する大学を決めようとしている生徒が少なくないとのことです。これまで、大学の教員は年間の授業計画・シラバスを事前に作成し公表するということはあまりしてこなかったし、そうすべきだという意識もあまりなかったように思います。しかし、開かれた大学にとって重要なことは、教育・研究活動やその成果を積極的に広く社会に開いていくことです。大学の外の人であっても、聴講生とか科目等履修生として、関心のある授業に参加できるようにしていかなければなりません。この情報化社会の中で、シラバス等が誰にも自由に見れるようになり、外からのいろいろな要望にも対応できる仕組みをつくっていけば、渡辺先生がおっしゃった様なこともできるようになるのではないでしょうか。
原 あの、一言だけ、これは自分の身内の者の話でお恥ずかしいんですけども、実は私の姉が60歳の時に一念発起いたしまして、慶応大学の通信教育部に入りました。私の姉は、昭和20年に津田塾をでてますので、昔の専門学校でてますので英語はまあ困らないんですが、慶応へ入って2年間でやるつもりでいたがそうは行かなかった。かなりの単位を認めてもらったんですが4年かかりました。その時に姉が言うには、通信教育で大学をでることはすごいことだと言いました。渡辺妙子さんはすごいことだと私は思うわけであります(笑)。私は、姉がでたときに、誰もやりませんから私は時計を贈りまして、彼女は私より10歳上でありますけれども、卒業を祝ったわけでありますが。今申し上げましたように、慶応の先生と仲良くなりまして、それから私の姉は伊豆の下田ですけれども、慶応の先生方が大いに援助してくださいまして、自分たちの女学校の同級会を中心にしながらセミナーを3年間行ないまして私もそれに入ったわけですけども、年に10回ぐらいのセミナーを開いて、そして3年間少しのお金をとりながらでしたけれども、そういうセミナーを私設の「清流セミナー」というのを、「清」く「流」れるで「下田清流セミナー」というのを、程々の利益を出してパッと3年でやめましたけども(笑)。まあもちろん利益と言っても後でコンパで終わる程度でありますけども。そういうふうなことをして楽しくできました。これも一つではないかと思うのであります。今言われたシラバスの問題でありますが、全くそうでありまして。先程申したように自分の目標を持ってきて、日本史を中心にやりたいと言う場合には、多少自分でものごとをまとめてあるテーマで書いてみたいということを持っている時には、日本史の基礎を学ぶときに何も教養科目の自然科学とか社会科学とかその他を全部とって大学をでなきゃならない理由は何もないわけです。そのためには日本史を中心にした、資料講読とか、あるいは時代別の時代史とか、あるいは演習といったものをとっていただいて、相当な能力というものを高めてもらうということが必要です。しかしその前には、少なくとも高等学校の最も詳しいものを一通り全部終えているということが必要なんですね。それを持ってきていただかないとそれから先の特殊講義やあるいは概説とかあるいは演習とかあるいは資料講読とかいうものに食いつけないわけです。これは自習をやればいいかというと、自習では駄目なんです。これは非常におもしろいことなんですけども、解剖学という学問は、とにかく教授が来て助手がラテン語を黒板に書くだけだそうです。もうひどいもんだそうです(笑)。ところが、それをやった助手を勤めた人が私の考古学の研究室にいたんですが、それにでてこない奴は絶対駄目だそうです。とにかくお経みたいなやつをタラタラタラタラやるだけで解剖学の基本が身に付いてくるんだそうです。つまり講義というのは恐ろしいのです。自分で本を読めば覚えるかというかというと絶対覚えないそうです。「絶対」というとなんですけど(笑)、「とても」できない、医学部の学生だってとてもやれることじゃないそうです。つまり「門前の小僧習わぬ経を読む」というので、だらだらだらだら読んでいるのを聞いているだけで覚えるそうです。つまり、生のライブの講義というのはいかに大切かというということです。そして出席とって本気にとにかく聞くということです。こういう事をやってこないで、一通り終えてないと、次の階にいけない。これが学問なんです。ここのところを、生涯学習を目指される方々はきちっと理解してほしいと思うんです(笑)。
角替 先程山本先生から平行型というお話がありました。これはリカレント教育の問題と深く関わってくる訳ですが。山本先生、そのことについてお願いします。
山本 あのー原先生のお話を聞いていますと、先程のように暗くなるという方がでてくるかと思いますが(笑)実はそうではないんですね。生涯学習というのはよく言われますようにいつからでもどこからでもできるというの話の中で一つ抜けているんですね。どのレベルからでもできるというのがあります。原先生のお話を聞いていて私もよくわかる。初歩から始めるのにいきなり大学にいっても無理ですよ、これは。ですから初歩からのところは初歩から勉強して、大学のレベルのことを勉強しようと思ったら原先生のところでお世話になればいいわけです。その場合でもいろいろあって、先程角替先生からお話しのあったようなリカレントの場合はですね、リカレントの概念を文部省のほうでも広げまして単なる職業教育というだけではないんですけども、例えば現職教育的な社会人中心のものはレベルが低いかっていうと決してそんなことはないわけです。問題はリカレントでやっていく場合には期間を短くしないとうまくいかない。来る方々は忙しい方々ですからね。長期のものだと困る。もちろん長くやる必要があるものもありますよ。レベルの問題でいきますと、私どものほうでも、教育学のほうで校長講習とか指導主事講習とかをやっています。これはまさに現職講習ですから、我々も一番最新の問題をどんどんぶつけてお話いたします。問題解決的な教育・学習という観点からみれば、大学院のマスター・レベルより高いです。ですから、これを単位認定するならドクターの単位を認定してもらいたいくらいのレベルです。さっき暗くなるといったお話があったけれども、もし、今までお仕事をしてきてその延長で何かをなさるんならレベルの低いものではない。ただ、初歩的なことからやるのならば、それは謙虚にひざまづいていくしかない。これは、領域による、それからレベルによるんですよね。従いまして、新しいことを始めるということでしたら、やっぱり初心に戻って「暗く」と言わず「がんばる」と言ったらいいかと思うんですね(笑)。
原 そういう相談に乗るところ、そこが必要なんですよ。
山本 そうそうそうそう。
角替 それはそうですね。
原 今も何をどういうことを狙っているかわかりませんからうまく言えませんが、カウンセラーみたいなね。生涯学習カウンセラーみたいなのが必要になってきて、そういう人が適宜に配置される。そういう体制が必要なんですね。
山本 おっしゃる通りですね。それで県のほうでも学習情報提供というのをやってますよね。私どもが15年ぐらい前に提唱したのが、学習メニュー方式と言うんですよ。どういうものかと言うと、自分自身で自分の学習設計をする。ですから、いろんな情報を集めましてですね、その中で初歩的なことからやるんでしたらそういうふうに順番でメニューを作って、学習を続けていくと。その学習メニュー方式というのは、群馬県の太田で始めまして、文部省で研究開発された生涯大学システムの場合は、コース制で行くだけでなく、メニュー方式といって、アラカルト、つまり「つまみ食い」でも良いというようにしていこうというのもあるんです。ですから個人でそういうメニューを考えてみて自分でそういう設計をしていくという考え方で行けば、暗くならなくて済むかなという気がいたします。
原 あの、これも思いつきみたいなもので恐縮でありますけれども、例えば、静岡大学で言えば、法律、経済、それから文学系、それから理学部、教育学部、それから教育学部の中には8科目全部そろっているわけですが、そのほかに農学部、工学部と、それから情報と、あるわけですが、こういうところの経験のある先生方と、県の総合教育センターあたりとがうまく協力しながら、例えば巡回相談というようなことをですね考えたら案外いいのかも知れないですね。
角替 そうですね。
原 そういうところで、我々のセンターが窓口となって、大学の中でこういうのは比較的経験豊富な先生方のほうがいいのだと思いますけども、各学部から数名出していただいてそして巡回の相談に乗っていく、というようなことをやって行くと比較的大学にアクセスしやすくなるし。「そのレベルでしたら単位制高校で勉強されたたらどうですか」などといったような、いろんな助言ができるかも知れませんね。そうしないと、ただ大学を開くと言うだけじゃなくて、要望に応えて、またその人の力量と言うものとかいろんなレベルのものがあると思います。
角替 庄田先生、大学への社会人入学とかリカレント教育とか、その辺のことについては、どのようにお考えでしょうか。
庄田 今、山本先生、原先生から出されたことと同じことになると思うんですが、学びたいという意欲のある方はたくさんおりますし、また部門も分野もさまざまですし、レベルもいろいろですけど、学習者のレベルに応じて、意欲に応じて面倒みてやらないといけないと思います。それこそ、自分たちが経験の豊かな人なら自分でどんどんやっていけますが、そうでない人は臆病ですから、どこから手をつけていいか分からないんですね。ですから、レベルに応じて、こういう人たちならこういう人に教えてもらえばいいというようなコーディネートを、今お話し合ったようにやっていただければいいですね。私は、自分の教師生活に役にたったと思うんですけども、高校時代数学をさぼってまして、出来が悪かったので、数学を楽しいと思ったことがないんです。ところが大学に入って、どういうことか数学の授業が非常に楽しいんですね。みんなから敬遠されてた先生でしたけども、その先生に、「先生の授業で私は生まれて初めて数学がおもしろいと思った」と言ったら、その先生は、「高校の時はどうだった」と言うから、「高校の時はぜんぜんおもしろくない、受験勉強だけで忙しかった」と答えたら、「受験勉強もおもしろくできる人もいるんだよ」と言いながら「まあ、あんたはいい先生にあたらなかったんだ。力のある人ならね、おもしろく教えることもできるんだよ」と、こともなげにそういわれました。その先生は非常に威張っている感じの人だもんですから、「またあんな偉そうなことを言ってる」とわたしは好感を持たなかったのですけども(笑)。しかし自分が学校を卒業して教師になってみますと、自分の同僚なんかですごく勉強している人は良い授業をするんですね。出来の悪いと言われる生徒を引きつけてやっているんですね。ですから、自分が相当な学力を持っていれば、相当な意欲を持っていれば、人に伝えることができるんだなと強く感じました。今、皆さん勉強したいという人が非常に増えています。私は、いろんな卒業生の中で、どういうタイプの人がずーと成人してからも勉強したがっているのかなということを、現在勉強している人に聞いてみますと一つ傾向があるのですね。高校時代よくできたとか、勉強が好きだったとか、成績が悪くても勉強に真剣に取り組んでいたという人たちが満たされない思いで今勉強したがっているのが多いですね。受験勉強ばかりで本当の勉強をしていなかったから今勉強したい、というのも多いんですね。高校時代に勉強を投げちゃってぜんぜん勉強しなかったもの、その中で実業界なんかで非常に成功しているのもおりますが、こと学習となりますとね、あんまり学習意欲がないですね。ですからやっぱり、青年時代学校にいるときに、勉強というのは大事だということを思わせなきゃ、そして自分がそういう経験を持たなければ、成人してから生涯学習社会と言われても、よほどのことがなければ自分はそこに入っていけないと思うのです。ですから、そういう人たちにどういうように手をさしのべていってやるかということが、これからの一つのテーマだと思います。受け入れる側が、いろんなレベルに応じていい授業を易しく分かりやすくやってくれる体制ができると素晴らしいと思うんです。大学の先生が今ここまで下りてきてくださっているのですから、いっそう多くの大学の先生が社会人を受け入れて、学生と同じように国民教育を自分たちで担うんだというくらいの気持ちになっていただけたらなと思います。
角替 ありがとうございました。会場の皆さん、今までお聞きになった中で何かご意見ご質問ございますでしょうか。
客席 私も葵学園で勉強させていただきました一人です。そのときに大学の立派な先生方の素晴らしい講義を聴かせていただきました。そのとき、やはり大学の先生というのは凄いのだな、すごい知識を持っているなと感じました。私は、大学の先生は「職人」だなと考えております。今テレビなどでいろいろな職人さんたちに接することができます。昔の小学校しかでていない、あるいは、ろくに学校にも行っていない方々が、非常に素晴らしいものを作っておられます。大学の先生という方々は、非常に素晴らしい頭脳をお持ちで、我々が逆立ちしてもかなわない。わたくしは定任退職した後も勉強しなければならないと思っていましたがなかなか実行できない。そこで、私の町の公民館でもって生涯学習をやってくださっており、それに出席いたしました。そのときには大学の先生から歌舞伎の話を聴くことができました。歌舞伎についても例えば古典の物語と結びつけて話をしてくれるのです。今までも歌舞伎をみたりしましたが、その先生の話を聞いて歌舞伎をみる「目」というものが広がったような気がしました。生涯学習というのは、なかなか凄いことなんだなと改めて感じました。先程、原先生が言われたことの考え方、それはそれで立派な考え方だと思います。しかし、生涯学習というものは、私たちのように知識も教養もない者でも、先生方のお話しを伺うことによって、ものの見方や感じ方を変え、人生に深みを増すためのものではないかと思います。まあ実際には深まってはいないと思うのですが、生涯学習によって、自分でも何か暖か味があると言うんですか自分の人生の芽というものが膨らんだような感じもしています。ですから、生涯学習と言うことで、そういう底辺の人たちにも大学の先生たちが自分のお考えになられたことを授けていただければありがたいと思います。葵学園のことを考えてみますと、県の税金で私たちは勉強させていただいた訳なので、税金もしっかり納めなければいけないという考えになりました(笑)。以上でございます。
角替 ありがとうございます。後ろの方どうぞお願いします。
客席 一般論として申し上げますが、大学を卒業しても、一元一次の方程式が解けない缶詰めのラベルが読めないという若者を私は沢山知っております。それから、朝の散歩の途中で県大生に向かって「バーチャルリアリティってどういうことだ」って聞いたんですが、。3人が3人とも答えられませんでした。これだけマスコミの中でカタカナ文字が氾濫しているときにこんなことも知らないというのは誠に情けない(笑)。そんなことを起点にして、もしこれから生涯学習を始めるとしたならば、イロハから始めなければいけないのではないかという気がいたします。以上です。
角替 はい、ありがとうございます。もう一人、二人おいでです。どうぞ。
客席 先程からお話を伺っておりましたのですが、正直、私は参加させていただいて期待に胸を膨らませて参ったのですが、私の思惑とは程遠いお話で(笑)、ちょっとがっかりしたわけでございます。大学開放と生涯学習。私は、生涯学習というのは、私の年齢で申しますと「ボケ防止」と、言葉を換えればそういうことだと思います。それから、今日お出でになっている方は中年以上の方が多く、今日おいでになるくらいですので相当に自分の好みの学問をしていらっしゃる方々だと思います。大学開放ということで、資格がどうのということが話されましたが、そういうことはあまり用がないことです。開放ということも、学生以外の社会人が来ても教えてあげますよというふうに聞こえました。私は、ここにおいでのみなさんは、ある程度経済なら経済、哲学なら哲学、文学なら文学で何かをやって自信を持っている方が多いと思います。ですから、開放ということは静大の先生を囲んで経済なら経済、学問なら学問の討論をすることで、その議論から学生へのアドバイス等を教授がキャッチすることだと思います。文学なら文学について、そういう方向で大学が開放されるものという期待をふくらまして参ったんですが、どうもそうでなくて社会人も学生と一緒にくりゃ教えてやるよと、「なに知りたい?ああそうか、そんじゃ集まれ。」というふうに聞き取れました。(笑い)
角替 そういうふうな趣旨でお話になったのではないと思いますが、そのようにしかとられなかったとしたら残念です。もう一人手が挙がっておりますが、ちょっと時間の関係もありますので、手短にお話いただければ幸いです。一番後ろのほうでさっき手が挙がりましたのでその方にお願いしたいと思います。
客席 学問的に高度なものが欲しいという方は大学行けばいいし、初歩からやりたいという方には市民講座のようなかたちがあると思うのです。問題はその中間の形、自分自身はかなり高度なことを知っているつもり、あるいは、思い込みも含めて、知っているという人たちにとって生涯学習はどうなのかということだと思います。先日六十歳以上のかたにアンケートをとりましたところ、七十歳、八十歳の方を含めて、それぞれの方がびっしりと書いてくださったんです。そのことから、自分の知識とか経験とか思いを、どこかで発表したい、知らせたいという思いを持っている方が少なくないと感じました。また、自分が持っている知識が、象に例えたら、必ずしも象全体を知っているということではなくて、足を知っているとか、腹を知っているだけなのに、自分は象をよく知っていると思い込んでいる人も少なからずいるということもあります。もし、象を本当に知っているんではなくて、ある部分だけを知っているならば、その全体、象全体を知る必要があるということが分かるような学習が必要です。、それらのことのために生涯学習が一番求められているし、希望されるのではないかと思います。
角替 はい、どうもありがとうございました。それでは一番前のお席の方。
客席 今までとは違った観点で大学開放ということをお願いしたいと考えています。大学というのは夏休みなどお休みの期間がながいですね。そういった期間に大学の施設そのものを開放していただけないかと思います。アメリカなんかの大学ではそういったことをやっているところがあるのですけれども、学生がいない間に学生寮を一部開放していただいて、そこに寝泊まりしながら、ある限られた期間、集中的に勉強する。そういったこともぜひ大学開放のなかに入れていただきたいなと思います。
角替 はい、ありがとうございます。それでは、一番後ろの方。
客席 生涯学習、大学開放、いろいろ話題になっていますが、やはり学習の捉え方に大変違いがあることが分かります。学習しようとしている方には非常に高いものを学ぼうとしている方もおられれば、また、趣味、教養とか、そういう期待で生涯学習を考えておられる方もいる。大学で社会人に本当に資格を与えて立派なマスターをつくることが生涯学習だとらえる方もいますが、いわゆるラーメン大学に象徴されるように、社会教育ではやったらと何々大学と使います、そのことはそれなりに意義があるのですが、そういう楽な意味で大学に行って勉強したいという方もおられると思います。そういう方は、極端なことをいうと、まず高校で勉強をやり直して、大学にくればいいのでしょうけど、そんなに堅く考えないで、やはり大学へ行って偉い先生の話を聞いてみたいという気持ちが、今の社会大衆のなかにはありますし、そういう期待に応えることも大切だと思います。そういうことで総花的なもので結構なんで、女性なら草花の講座なんて非常に関心がおありだろうし、税金のこともあるでしょうし、そういう内容の講座を幅広く開いていただければ、いろいろチャンスがふえてうれしいなと思います。
角替 はい、ありがとうございます。あと、お二人ほど手があがりましたのでそれで終わりにさせていただきます。どうぞ。
客席 葵学園で庄田先生には大変お世話になりまして、いい勉強をさせていただきましたが、その時に日本史の勉強で確かに原先生がおっしゃるとおりのことを、私も身に染みて感じました。確かに古文書をやっても大変だと思いました。私の子供は学芸員の免状を取っています。もともとはあまり好きでもなかったようですが、今社会人になって役に立ち取っておいて良かったと言っています。庄田先生からはレストランというお話がありましたが、レストランというのは、語源的には、リストラとも関係があると聞いています。原先生もビックバーン、再構築ということをおっしゃいました。それも地域に密着するために大学を開放したいという意見だろうと思います。庄田先生も今度つくる大学には、どんなものでもあるということをさっきお話下さいましたが、このレストランにみんな行って、元気を出して次に勉強しようっていうのがいまの再構築なんだと思います。私は、今日いい意見を聞かせていただいて非常にうれしかったんです。私は三人子供を育てましたが、それぞれ個性があり、その後押しをしただけで今まで我慢し、自分のことは何もせずにきました。最近になって、子供が「お母さん、これからはお母さんの勉強だね」って言ってくれたので、葵学園にお世話になりました。非常に良かったと思っています。葵学園は、同じ年代の同じ苦労を積み重ねた人が集まってきています。したがって、そこには今まで苦労してきた生活がにじみ出ています。それを基にしながら勉強すれば、ずいぶん意義があると思いますし、実際にも葵学園で勉強したことが非常に役に立っています。この間、登呂遺跡での勉強のときに、原先生にも大変お世話になりましたが、昔やった考古学の勉強が五十年たってやっと役に立ったと思いました。これからはそんなに難しく考えずに勉強することも大切だと思います。いま少子・高齢化が問題になっていますが、単純に高齢化が進んだのではなく、少子化だから高齢化が進んだという面もあります。だから高齢の人が頑張ることが大切になります。福祉の面の勉強を考えてみても、学ぶということは楽しいことだと言えます。大学開放とか、難しい字が書いてあるので、生涯学習となると大変だなあと思うけど、絶対そんなことはありません。みんなで勉強していきましょうよ。原先生は学者ですから、その立場において自分の意見をおっしゃるけれども、私たちは学ぶ立場ですから、学ぶ立場で話させいただきました。それを受け入れて下さればいいと思います。(笑)
角替 もう少しご発言いただきたいのですけれども、お約束の時間の、五時近くになってしまいました。大変申しわけございませんが、今いろいろご意見を伺いましたので四人の方に、それぞれ三十秒ぐらいで手短にご発言いただきまして、シメにしてまいりたいと思います。原先生からお願いしてよろしいでしょうか。
原 いや、どうも私、大きい声と少しあの、誤解を生じたかもしれません。本当は、私の話って面白いですよ。(笑)
角替 山本先生どうぞ。
山本 あの、生涯学習っていうのは、幅も広いし、レベルもさまざまです。成人の学習には、グッドタイミングというのがあります。自分で、これが今グッドタイミングだと思えば、それでいいんだと思いますね。ただその中でひとつ、やはり大学にすべてを期待しても、それは無理ですよ。ですから、県でもいろいろ生涯学習支援の仕組みを整備してくれてきておりますが、その中で大学というのがどういうところに位置づくのかっということを、私たちははっきり自覚していけばいいと思うんですね。
角替 では、庄田先生。
庄田 まあ長い目で見ると生涯学習社会ってのが成熟しなきゃ、十分に定着しないと思うんですけど、当面短期的にみて、学ぶことはメリットがあるんだ、楽しいとか役に立つとか、皆と仲よくなれるとか、学んでいる人たちがお互いに、周りの人たちに知らせていってくれることがすばらしいと思います。なんせ、日本人は非常に教育水準が高いものですから、さらにまたこれから発展していくと思いますし、学校教育は120年もの伝統がありますが、生涯学習っていうのは、金もあんまりかけてないし、それほどの歴史をもっていません。これから、生涯学習がいよいよ発展する時代だと思って私は非常に期待しております。ありがとうございました。
角替 ありがとうございました。それでは渡辺先生、最後よろしくお願いいたします。
渡辺 あの、ここにいらっしゃる方皆さんがそれぞれ社会的な地位をそれぞれ持っていると思います。人の上にたてばたつほど、自分が逆に教わる立場になるということは、非常にものの考え方に幅を持たせ、人生を豊かにしてくれると思います。ですから学ぼうと思った日が吉日でして、皆で学んでいけばいいと思います。そうすれば、もっと大学も開放してくれると思います。
角替 ありがとうございました。(拍手)
実は静岡県の生涯学習審議会が平成9年12月に「多様な学習機会のネットワーク化への具体的方策についてリカレント教育を中心に」という、報告を出しております。私も直接関わったのですけれども、今いろいろお話を伺いまして、やはり生涯学習の視点から学習のためのさまざまなネットワークをきちっとつくり、それぞれの方の学習要求に十分に応えるとともに、学習要求をより高めるる方策を積極的に考えていかなければならないと強く感じました。私どもの静岡大学生涯学習教育研究センターも、そのなかで中核的な役割を担える存在になっていくことがわたくしどもの願でもあります。先程のお話にもございましたが、大学にとりまして、地域社会に対する奉仕ということは、きわめて重要な役割です。その奉仕のいわば中心として、窓口として、大学と皆さん方の接点としてこのセンターは機能しなければなりません。私ども決して教えるという立場ではありません。皆さん方からいろいろな刺激をいただきながら更に深く研究し、あるいはさまざまな研究課題を皆さんにも投げかけていく、そういう窓口として機能を果していきたいと思っております。まだ、発足したばかりですが、今日はこんなに沢山の皆さんにお集りいただいたということに感謝申し上げるとともに、その期待に十分に応えられるように、今後、一生懸命に努力してまいる所存です。今後ともよろしくご支援いただきますことをお願いいたしまして、このパネルディスカッションを終わらせて頂きます。どうも皆さん方、ありがとうございました。(拍手)
司会 ありがとうございました。閉会にあたりまして、文部省の生涯学習局・清水明企画官からご感想を頂きたいと思います。最後にお願いいたします。
清水 ええと、もうここで終わってよかったんではないかと思うのですが。(笑)何か一言ということですので、簡単にコメントさせて頂きたいと思います。各分野のパネラーからいろいろ楽しいお話を頂き、また、会場からは、大学、文部省などに対する厳しい意見も頂いたところであります。大学開放と生涯学習には、なお課題が多いということを改めて感じました。最後に、学部長さんからもまとめて頂きましたように、やはりネットワークが大事であります。今日は、静岡県教育委員会の生涯学習課長さんをはじめ、行政の方も参加頂いておりますし、また、学長さん、学部長さんなど静岡大学の中からも多くの方が参加をいただいております。さらに、何よりも、葵大学をはじめ、学習熱心な県民の方々からも参加頂いております。センター長の原先生の言われるとおり、非常に小さいセンターであり、単独で何もかもやれるわけではありませんが、本日ここに来て頂いている方とのネットワークを生かし、様々な意見を頂きながら連携していくことで、このセンターが静岡大学の「開かれた窓」として、よりいっそう活躍をいただければと思っております。それの切っ掛けになったという点でも、本日のこの会は大成功だったのではないでしょうか。本当に簡単でございますが、一言コメントさせていただきました。今日は、皆さんご苦労さまでした。(拍手)
司会 では、以上をもちまして静岡大学生涯学習教育研究センターの開設記念シンポジウム、終わらせて頂きます。ええ、長時間に渡りまして誠にありがとうございました。どうもありがとうございました。(拍手) 恐れ入りますが、アンケートを受付の横のボックスがございますので、お入れいただけるとありがたいとおもいます。誠にありがとうございました。
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