パブリックな、
あまりにパブリックな...
地図をみるとレジャー施設のマーク、名前も確かに「パーク」。それなのに行ってみると入れない。個人の領地で、特定の曜日の限られた時間にしか開放されないのだそうだ。全く開放されないパークだってある。パーク=‘公園’、というのはどうもこちらの早とちりらしい。イギリスには「パブリック」と名のついたものがたくさんあるが、この言葉もはなはだまぎらわしい。日本語の<公>をイメージすると、どうも違うような気がするのだ。例えば、一番有名なあの「パブ」にしても──。
イギリスの田舎をドライブするのは気持ちがいいが、もちろん道に迷うことはある。しかしそれで嫌な思いをしたことはあまりない。英語の初心者には少し聞き取りにくい発音ではあるが、皆とても親切に道を教えてくれるし、素晴らしい眺望の丘や林の中の小川のほとりなど、迷えば迷うほどどういう訳か雰囲気のよいところに出るのだから。数十世帯しかなく、店らしいものがまったくないような村に迷い込んでも、しっかりパブはある。そしてそんな所にあるパブは白壁に萱葺き屋根(1)だったりする。花で飾られた庭のピクニックテーブルに座って、親はハーフパイントのビール、子供たちはジュースで喉を潤し、ソーセージとポテトの揚げたやつを頼む。あちこち引っ張り回されて迷惑顔だった家族の機嫌も、総予算わずか5ポンドほどで直り、まずは一件落着である。
イギリス人も英国通も口を揃えて絶賛するとおり、確かにパブことパブリック・ハウスは便利である。しかし、それのどこがパブリックなのか、私にはいま一つ合点がいかない。「パブリック」というその程度がすこぶる限定的のように思えるのだ。迷いに迷って行き着いた、どんづまりの村のパブではたいてい何代にもわたるお得意さんらしい村人の客があからさまに物珍しそうな視線を送ってよこすし、実際パブの主人に「創業(大体数百年前です、念のため・・・)以来の東洋人客だ」と言われることもある。英国人の同僚に言わせるとそもそもパブの名前や看板を見れば、市民戦争や清教徒革命など歴史の節目節目でそのパブがどちらについたか、どちらの勢力が根城にしたかが分かるのだと言う。「キングズ・ヘッド」といった分かりやすい名だけでない。例えば「ブラックボーイ・イン」という名前であれば、クロムウェル治世下、フランスにいて英国凱旋をねらったチャールズU世の隠れシンパといった具合だ(2)。そして、目と鼻の先には反対陣営のパブがあったりする。パブに関する条例の中に、その主人は理由を説明することなく客の入店を断る権利を有するという条項があるのだそうだが、あるいはそうした背景があるのかもしれない(幸いにして私は、まだその権利を行使されたことはない)。また、少し前までは庶民と旦那衆との入り口が違っていたとかいう話もあるし、とにかく客の絶対数から言っても客層からしても、公共とか公衆とか、要するに匿名の不特定多数に開かれたという感じがしないのだ。これを「パブリック」と呼ぶなら、数十人のなじみ客以外誰も来ないような赤ちょうちんやおでんの屋台だって立派な<パブ>なのではなかろうか。
パブリック・フットパスという代物もある。とんでもない場所に忽然と出現するこの小径は、ミステリーサークルに負けず劣らずミステリアスだ。住宅地の路地を縫うように走る、人が一人やっと通れるような小さな道。街中だけではない。森や林、牧場、お屋敷、ゴルフ場、ありとあらゆる場所に、まるで英国の毛細血管のごとくフットパスはある。おそらくその多くは昔ながらのケモノ道のような存在なのだろう。また考えて見れば、とんでもなく広い屋敷や牧場、また基本的に袋小路になっている住宅地にこの種の小径がまったくなかったとしたら、人々は歩くのにえらく遠回りをせねばならず、大いに不便を感じるだろうし、持てる者と持たざる者との違いを否応なく実感させられフラストレーションが溜まるはずだ。眺めの良い丘などがことごとく個人の私有地で、普段それを享受できるのが牛や羊たちだけだとなればなおさらだ。お屋敷の持ち主も、自分の敷地でありながら領内を走るフットパスには勝手に手をつけることはできないのだそうだ。そういう意味では、パブリック・フットパスは階級間のある種の妥協点なのかもしれないし、おおげさに言えば安全弁、毛細血管だとしたら小さな不満を浄化する「静脈」の方なのだろう。
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