ジェロームを
おいかけて

 最良の英国ガイドブックは何か?──諸説あるだろうが、レディングに住み、それほど遠出をしない私にとっては、『ボートの三人男』に勝るものはない。ジェローム・K・ジェロームの筆になるこの書は、初版が1889年というから、英国の基準からしても十分‘一昔前’のユーモア小説なのだが、週末の小旅行、日帰りのドライブ、トラディショナル・パブ巡りの良い伴侶となってくれるし、また英国人とその文化についての得がたいガイドでもある。
 ご存じのようにこの小説は、退屈と憂鬱にとりつかれたJという主人公が、悪友ハリス、ジョージ(それに犬のモンモランシー)と共に、テムズ河をボートでゆく珍道中を描いたものだ。ロンドン近郊のキングズトンから漕ぎ出しオックスフォードにいたる彼らの道程をたどっていくと、実はちょうどその中間にレディングがある。三人と一匹が様々な騒動に巻きこまれ、ケンカをし、その歴史を語り、鋭い人間観察を披露したその場所を訪ねるのに、レディングはまことに都合がよいのである(もっともレディング自体はJ氏にけっこうけなされているのだが...)。
 小説に何度も登場するマーロウやヘンリー、その美しさがたたえられるハーリーやゴアリング、皮肉な調子で語られるメイドンヘッドといった場所はみな、クルマでも鉄道でも30分ほどの距離にある。「テムズ河で最も浮世離れのした小さな村 (1)」と評されたソニングにしても、暁星のキャンパスからクルマで20分ほどでしかない。J氏おすすめの宿「教会の裏にあるブル・ホテル」も当時の姿のままでちゃんと営業している。ちなみに、このソニングにはけっこう有名人が住んでいるらしい。ある日の夕方、地方版TVニュースを見ていると、見覚えのある人物がインタヴューに答えている。「ここら辺は朝夕のラッシュにはえらい混みようなんだ、一つしかない橋は片側交互通行だしね。静かな村がだいなしさ。ソニングの住人はえらい迷惑をしてるんだ」というようなことをしゃべっているのだが、クレジットには‘Sonning residentのユリ・ゲラー’とあるではないか。スプーン曲げに夢中になった私などは思わず「だったら超能力でなんとかすれば」とつっこみを入れたくなってしまった。
 マーロウとその名物ホテルのコンプリート・アングラーはリンボウ先生のおかげですっかり有名になったが、私としてはすぐお隣のハーリーとその「オールド・ベル (2)」というインを推したい。ジェロームが書いたように今もハーリーは静かで美しい村だし、二百回ほど塗り直したような白壁にSince 1135とかかれた、何とも言えないたたずまいのこのインの中庭でビールを飲るのもよい。また甘党の私としては、ここのスコーンはコンプリート・アングラーのそれより数倍美味だということを強調しておきたい。コンプリート・アングラーといえば、「ワーズワースの庭で」という日本のTV番組でも紹介されたようだ。撮影のとき、たまたまそこに居合わせた暁星の客員教授(当時)のK先生と明治大学のI先生が、撮影隊に「映らない場所にのいてくれ」と言われて席を移動させられ、大いに憤慨したことを私は知っている。想像するにオンエアでは、しゃれたBGMと語りがついた、英国の瀟洒なホテルの1シーンとなったことだろう。優雅なアフターヌーン・ティーを求めてはるばるやってきた人達はしかし、大いに失望するのではなかろうか。「ワーズワースの庭で」は、その場所がしばしば日本人観光客の貸し切り状態になるとは言わなかっただろうから。
 もっともこうした撮り方や紹介のしかたは、日本のメディアだけではないのかもしれない。"Secret Thames"という写真集がある。空からテムズ河の美しいスポットを撮影したもので、先にあげたソニングの橋の付近の写真ものっている。中州を作っていくつにも分かれて流れるテムズ河、ひなびた家々、石と煉瓦でできたリスティド (3)の橋がひっそりとたたずむその写真はとても美しい。しかしそこには、渋滞を起こすほどに走っているはずの自動車も、それをさばく2台の信号機もうまい具合に映っていない。いったい、いつ、どんなふうに撮られたのか私にはわからないが、これはたしかに「知られざるテムズ河」ではある。
 さて、ハーリーをもう少し遡ると、対岸の小高い丘にダンズフィールドが見える。テムズ河を見下ろす広大な敷地をもつこのマナーハウスは、ジェロームの時代とは違って今では豪勢なホテルになっている。レガッタで有名なヘンリー・オン・テムズは、もう少し先。7月初旬のヘンリー・レガッタにはやんごとなき方々に混じって、わが暁星も百人乗りの貸し切りボートをテムズに浮かべてレガッタ見物をする(今年はきっとジャズバンドつきだ!)。ちなみに、夏場にはこのマーロウ−ヘンリー間を船が運行する。途中いくつものロック (4)をエレベータ式に越えるので、クルマなら30分弱の距離を2時間以上かける船旅だが、三人の道中の雰囲気が少し味わえるかもしれない(しかし、河畔のお屋敷はみな顔を河に向けている。道路沿いの方は無粋な塀で目隠ししているくせに、河辺の方には精一杯愛想をふりまき嫌味なくらいに飾り立てている)。

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